橋本裕の日記
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先日、大和路の旅の途中、北さんに「倫理という力」(前田秀樹著、講談社現代新書)という本を見せられて、電車の中で一気に読んでしまった。倫理についてのむつかしい話かと思いきや、トンカツ屋の親爺の話から始まって、法隆寺の宮大工の話、映画「東京物語」の解説、そして本居宣長まで出てくる。そして実にわかりやすく具体的に「倫理的」ということのほんとうの意味に迫っている。そのさわりとなる部分を引用してみよう。
<私たちは、生きて効率よく振る舞い、あらゆるものを自分の生活上の都合に合わせて知覚している。ここでは、自分が主人であり、より強力な主人であるための工夫は何でも取り入れる。そうやって、私たちの科学はここまできた。だが、私たちの眼と耳とは、同時にいつでもそれとは反対の方向に自分を開く可能性をもっているのだろう。真夏の海水浴場でふと聞こえるあの静寂は、実は静寂ではない。静寂を聞くとは、おかしなことではないか。聞こえているのは、宇宙の声である。私たちのすべての行動と無関係であり、しかも私たちのすべてを含んで流れている「在るもの」の声である。>
<そんな声を、私たちはしばしば聞き、聞いたとたんに捨てていく。行動の邪魔になるものを何でも捨てていくのは、生き物の常だ。けれども、一体どうしたわけか、そういうものを懸命に拾い集める人間たちがいる。・・・彼らは、今日では芸術家と呼ばれているが・・・最も根底的な芸術は、常に倫理的なものである。なぜなら、そこには「在るもの」の前に身を屈める最も熟慮された、厳格なやり方があるから。>
この本の内容について、北さんがHPの雑記帳に「ものの役に立つこと」「在ることを愛すること」と題して二回に分けてすばらしい紹介文を書いている。上の文章も北さんが引用したものを孫引きさせてもらった。あえて私が蛇足を加えることもないのだが、前田さんの文章を北さんの解説から孫引きしながら、私なりの感想をここにいくらか書き残して置こう。
<小津の映画を形式美のお遊びのように言うのは、愚かなことである。むしろ彼の映画は、倫理への欲求に満ちていると言ったほうがよい。ただし、この倫理は、行動よりは観想に向かう。生活するよりは「在るもの」に向かう。・・・行動や生活や政治のなかに探し回る倫理よりも、もっとはるかに根源的な倫理がある。宇宙に置かれる生の態度とでも言えるものがある。それは「在るもの」への黙した信仰と常にひとつになったものだ。>
この文章を読みながら、私の脳裏に浮かんだ一つの映画がある。サタジット・レイ監督の「大地のうた」である。なんでもない一つ一つのショットが心に迫ってくる。<行動や生活や政治のなかに探し回る倫理よりも、もっとはるかに根源的な倫理がある>ということは、「大地のうた」においても文字通りあてはまると思ったのだ。
ビットゲンシュタインといえばラッセルが高く評価した哲学者だが、「世界がいかにあるかではない。世界が在るということ自身が奇跡である」と言っている。アリストテレスは哲学とは「驚き」から始まると書いている。私は哲学とは「在ることの驚き」から「在ることの愛へ」そして「在ることを楽しむ」生き方へと人を差し向けるものではないかと思っている。しかしそれはいかにして可能か。
<知性は生物上の個体が有用に行動するためのひとつの能力にほかならない。個体のこの能力が最初に育てる知恵は、道具を使用する「物の学習」から来ている。物の性質に入り込み、その性質と共生して進む知恵こそが、知性から育つ最初の知恵である。「人と人との間」に適用される知恵が、これとはまったく別ものであるはずがない。道具を使用して行動する知恵が、自分の外でぶつかる抵抗物は、単なる物体ではないだろう。釘を打つべき板一枚からして、すでにそれは変化する微妙な性質である。このような性質の無限の連続変化は、知性が立ち向かう世界の全体をいっぱいに満たしている。「他人」もまた、そこに現れるひとつの抵抗物、おそらくは最も複雑な抵抗物なのではないか>
<・・・役立たずとは、物の性質が分からない、性質の差異が一向見分けられない、ということと同じ意味である。反対に、ものの役に立つとは、物の性質がわかり、さまざまな性質の差異を見分け、要するに「物の学習」に長じていることと同じ意味のように思われる。だが、それだけではない。この学習に長じる者は、「人と人との間」を生きる知恵にすぐれる者である。なぜなら、この学習にとって、物と人とは同じように外に在る外部の抵抗物であるから>
<儒学者流の道徳の不要を唱えた本居宣長は・・・善悪是非を賢げに論じて道徳を説く輩に、ものの役に立つ人間は1人もいないと考えた。人間には道徳などいらない、ものの役に立つだけで充分である。その知恵を深くする努力があるだけで充分である。なぜなら、その行為のなかには「事の心」「物の心」を知る能力のすべてが備わっているからだ。宣長はこう言っている。「目に見るにつけ、耳にきくにつけ、身にふるるにつけて、其のよろづの事を、心にあじはへて、そのよろづの事を、わが心にわきまへしる、是事の心をしる也、物の心をしる也、物の哀れをしる也」このことに付け加えるべき道徳はない。>
<・・・西岡が感嘆するのは、こうした樹木の性質を、あるいはそこに生じる性質の無数の差異を、飛鳥時代の工人たちが知り抜いていたことである。たとえば、一本の柱が千三百年間まっすぐ立つためには、その柱と他のあらゆる木材との性質の差異が見分けられなければならない。木を組むとは、こうした差異のねじれや抑揚を堂塔という目的のために厳密に関係付けることである。・・・飛鳥時代の工人にはそれができていた。しかし、鎌倉期の建築となれば「木に学ぶ」この知恵はもう消えていると、西岡常一は言う。>
<「わたしどもは木のクセのことを木の心やと言うとります。風をよけて、こっちへねじろうとしているのが、神経はないけど、心があるということですな」 西岡常一の言うこの「心」は、宣長の言う「物の心」とほとんど寸分変わりない。これは時代遅れの比喩などではない。科学が跡づける明確な事実である。宮大工の棟梁には多くの大工を指揮して「木のクセを組む」という実際上の仕事があり、クセが見分けられなければ、彼の仕事はあからさまに失敗する。けれども「木のクセを組む」仕事は、多くの大工なしには決して行えない。一人の宮大工は何者でもない。そこで、木のクセと同じだけ多様な大工のクセ(腕自慢の大工ほどクセが強い)が、木のクセを組むことになる。棟梁は言う。「木のクセを見抜いてうまく組まなくてはなりませんが、木のクセをうまく組むためには人の心を組まなあきません」。「木の心」と「人の心」とじは、同じ抵抗物だと言うのである>
ラッセルは井戸掘り人の幸福について、<彼の仕事は井戸を掘ることだった。とてつもなく背の高い男で、信じられないくらいたくましい筋肉をしていた。読むことも書くこともできなくて、1885年に国会議員の選挙権を得たとき,初めて国会というものの存在を知ったのだった。・・・彼の幸福は、体力に恵まれ、仕事が十分にあり、岩石という形のなんとか克服できる障害にうち勝つことに基づいていた>と「幸福論」に書いている。そしてこうも書く。
<幸福な人は人格が内部で分裂もしていないし、世間と対立もしていない。そのような人は、自分は宇宙の市民だと感じ、宇宙が差し出すスペクトルや、宇宙が与える喜びを存分にエンジョイする。また、自分のあとにくる子孫と自分は別個な存在だとは感じないので、死を思って悩むこともない>(17章 幸福な人)
「在るものを愛し、在ることを楽しむ」、そのような生き方が本当の幸福に人を導く。そしてそのような生き方こそ最高に「倫理的な生き方」である。そのような生き方ができるかどうか、これは知識の問題というよりは、感性の問題であり、生き方の問題だと思う。そしてこのことはすでにアリストテレスが「善とはそのものの本性・自然(ピュシス)を最高に活かすことだ」(ニコマコス倫理学)と明解に書いている。
「在るものの声に耳をかたむけ、在ることの喜びに身を置く」という生き方、それは同時に、最澄のいう「一隅を照らす」という生き方であり、宇宙市民としての生き方だと言ってもよい。以前、私はこのことについて集中的に思索したことがある。「人間を守るもの」の中から、「今、ここで豊かにいきるということ」という文章を最後に引用しておこう。
<真人であるということは、明るく澄んだ美しい志を持って、自己と世界について深く体験することです。良寛も仙桂和尚もそれぞれの時代に、それぞれの場所で、真人として豊かな生涯を終えました。我々にとって大切なのは「今」「ここで」、自分の平凡な生を精一杯生きるということでしょう。世界の人口の半分が飢えているこの時代に、経済大国に生まれた我々が何をなすべきか、地球市民として如何に生きるべきかと言った問題から、当面する身近な社会問題にいたるまで、今ここで自分に何ができるのかを具体的に考え、そして出来ることは例えどんな小さなことでも、勇気を持ってそのつど実践することです。実存とはこの一つ一つの投企であり、実践です。そしてこのささやかな実践の積み重ねのみが、私たちに新しい自己と世界をもたらします。人間は自然と社会に守られてその生存を恵まれています。しかし、人間は単に肉体的存在ではありません。精神としての人間をその根底で支えるもの何であるかは、結局のところ、こうした実践を通して各人が「了解」するしかないのです>
(参考サイト) 「北さんの雑記帳」 http://www.ctk.ne.jp/~kita2000/zakkicho.htm
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