橋本裕の日記
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2003年11月13日(木) 勉強ができるということ

 以前、東京の有名な予備校の教師が書いた文章を読んだことがある。彼の教え子の一人から、「先生も僕と対等な口が利けるのは今のうちだね」と言われたという。教え子がいうには、自分はやがて東大の法学部に入る。そして官僚になる。そうすると、もう先生のような下の身分の人とは対等に口が利けなくなるというのだ。

 教え子はこれを悪気があって言ったのではない。むしろ、この予備校の教師が大好きで、別れるのが残念で言ったのだろう。しかし、これを言われた教師は、あまりいい気がしないのではないだろうか。たしかに数学や英語が出来て、偏差値が高く、東大法学部合格間違いなしの優秀な頭脳の持ち主かも知れないが、私ならこの子は何も人生の勉強ができていないなと思い、哀れを催してしまうだろう。ちなみにこの生徒の父親は東大法学部卒で、キャリアの官僚だそうだ。

 山田詠美の「ぼくは勉強ができない」の中にも、こうした秀才タイプの少年が登場する。常に学年No1の脇山茂だ。脇山はクラス委員長の選挙で当選した。勉強のできない時田秀美は3票差の次点だった。秀美は勉強はできないが、クラスの人気者である。とくに女性に人気がある。そんな秀美に脇山が話しかける。

「おまえ、このままじゃ三流大学しか入れないぜ」
「ぼく大学に行かないかもしれないから」
「へっ? またなんで」
「金かかるから」
「おまえんち貧乏なの?」
「そうだよ」
「でも、大学にいかないとろくな人間になれないぜ」
「ろくな人間て、おまえみたいな奴のこと?」
「そうまでは言っていないけどさ」
「脇山、おまえはすごい人間だ。認めるよ。その成績の良さは尋常ではない」
「・・・・そうか」
「でも、おまえ、女にもてないだろう」
「・・・・・・・・・・・」
「ぼくは確かに成績悪いよ。だって、そんなこと、ぼくにとってどうでも良かったからね。ぼくは彼女と恋をするのに忙しいんだ。脇山、恋って知っているか。勉強よか、ずっと楽しいんだぜ。ぼくは、それにうつつを抜かして来て勉強しなかった。でも、考え変わったよ。女にもてて、その上成績も良い方が、便利だってことにね。どうしてかって言うと、おまえのような奴に話しかけられないですむからだ。よおし、僕は勉強家になるぞ!」

 もちろん、「勉強家になる」というのは秀美の本心ではない。ただ口が滑っただけだ。しかし、物語の最後の方で、秀美は大学進学について前向きになる。それは幼なじみの同級生で、やはり学校では落ちこぼれ気味の真理にこんなことを言われたからだ。

「私、卒業したら、すぐ水商売に入りたいんだもん。良く、遊びに行く店のママさんに可愛がられてさ。私、素質あるって、自分でも思うんだよ。だから、秀美にも、協力してもらわなきゃね」
「ぼくが何を協力するの?」
「ちょっと、教養身に付けたいんだ。と、言っても、あんたに学校の勉強教えてくれなんて、もちろん言わないよ。ほら、秀美って、桜井先生や桃子さんの影響で、意外と、本とか読んでいるじゃん。そういうこと。私って、そういうのに、全然、縁がないでしょ。今さら、誰かに、その種のこと尋ねるのも恥ずかしい訳よ」
「ぼくの知っていることで良ければ」
「大学に行って、私に、もっと色々なことを教えてちょうだいよ。私は、秀美から、あれこれ勉強すんのが好きなんだから」
「ぼくから? ぼくから、何かを今まで教わったことなんてあった?」
「沢山あるよ。知らないの? 秀美を通した当たり前のことは、みいんな当たり前じゃなくなってるんだよ。私は、大学生なんて、だいっ嫌いだけど、大学生になった秀美のことは、好きになるって確信がある。何故って、あんたは、きっと、人とは違う勉強家になるって思うから」

 このあと秀美は担任の桜井先生を恋人の桃子のいるバーへ誘う。そしてその途中で、「ぼくは、大学に行きます」と宣言する。「何!」と驚いた先生に、「大文豪が射精を繰り返してたら、はたして、文学が生まれていただろうか、というようなことを知りたいんですよ」と応えながら、唖然とする先生を促して店の扉を押す。

 物語はここで終わっている。秀美は大学生になるのだろう。そして、大学を出て、どんな大人になるのだろうか。彼ならば桜井先生や桃子さんのような味のある顔をした大人になることができそうな気がする。学校の教師になるか、あるいは山田詠美のような素敵な小説家になるかもしれない。山田詠美は「あとがき」の中で、「時田秀美は、私の作品の中でも、とりわけ気に入っている主人公である。書いていて、とても楽しかった」と述べている。

 秀美は詠美の分身だったのだろう。作者は秀美を通して、自己の青春時代を振り返り、あれこれ考えて楽しんでいるように見える。そしてその作者の営みに、いつか読者である私たちも、自分たちの青春時代を重ねている。何十年かを隔てて、思わぬ発見をし、人生に一度きりの恥と輝きに満ちた若葉の季節をいとしんでいたりする。


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