橋本裕の日記
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2003年11月12日(水) いい顔をした大人になること

 昨日に続けて、山田詠美の「ぼくは勉強ができない」について書こう。主人公の担任の桜井先生がなかなか好感が持てるからだ。桜井先生は主人公の時田秀美が所属するサッカー部の顧問でもある。

<顧問の桜井先生の影響で、不思議な生徒達があつまってくる。教え子を鍛えるという使命に、まったく燃えないこの先生は、だから、皆に好かれているのだが、奇特な人間を増長させてしまうのも確かである。だいたい、ぼくたちがフィールドを走っている間じゅう、しめしめとばかり、本をひろげるサッカー部の顧問など聞いたこともない>

 たしかにこの先生、サッカーの練習を見ながらむつかしい哲学の本を読んでいるような風変わりでいい加減な先生である。とても熱血教師からほど遠い存在だ。秀美はこの風変わりな先生と気が合っている。そしてときどきラーメンを食べに行く。

<年上の男、しかも教師に向かって、いい奴とは、とても無礼だと、ぼくも思う。しかし、ぼくは、彼が好きなのだ。第一、いい顔をしている。美形というのではないが、味わい深い顔というのだろうか。おまけに、女にもてる。女生徒の中には憧れている者も多い。ぼくは、いい顔をしていて女にもてる男を無条件に尊敬する。・・・・・

 ぼくは、桜井先生の影響で、色々な哲学の本やら小説やらを読むようになったが、そういう時、必ず著者の顔写真を取り出してきて、それとてらし合わせて文章を読む。いい顔をしていない奴の書くものは、どうも信用がならないのだ。へっ、こ〜んな難しいこと言っちゃって、でも、おまえ女にもてないだろ。一体、何度、そう呟いたことか。しかし、いい顔をした人物の書く文章はたいていおもしろい。

「おまえ、それはちょっと極端な発想じゃないか?」
「そうですか。でも、先生だって女の子にもてるでしょ」
「そうでもないぞ。先生は、セックスがあまり強くないからな」
「強いって長時間出来るってことですか?」
「うん、まあ、そうだな」・・・・
「ぼくは桃子さんとは1時間出来ます。彼女、きちんとコントロールしてくれるから。先生も年上の女性とつき合ってみたら? 上手ですよ。母が言うには、若い女とセックスして喜んでいる男なんてろくなもんじゃないんだって」
「悪かったな」

 桜井先生は、眼鏡を曇らせながら、丼を抱えていた。やっぱりいい顔している、とぼくは思う。こんな人に、でも、あんたセックス弱いじゃない、と言う女はいないだろう。少なくとも、思いやりある人間の出来た女なら>

 桜井先生は担任の教師だから、秀美のことを考え、いろいろとアドバイスするのだが、それが少しも説教臭くない。おしつけがましいことは言わずに、ただ年長の友人のような感じでアドバイスする。二人のほのぼのとした会話には、なんともいえない味わいがある。

 私たちの高校時代、こうした味のある先生がたしかに一人、二人はいたものだった。私も一緒にラーメンを食べたり、ときには夜、先生のアパートに押し掛けて行って、文学や哲学の話をしたものである。作者の山田詠美はあまり先生に恵まれなかったらしい。彼女のまわりには「いい顔」をした教師があまりいなかったようだ。「僕は勉強ができない」の「あとがき」にこんなことを書いている。

<高校二年の時、私の担任の先生が私の家に来た。物理の試験で二度も零点をとったためである。彼は、その物理の担当だった。お宅のお嬢さんは授業態度も悪く、人の話を聞かない、授業中に小説を読み、放課後になると男子生徒と寄りそってそそくさと帰る。もうどうしょうもありません。お嬢さんのように自分の世界に入ってしまって聞き分けのない子は、将来は、作家にでもなりゃいいんです>

  この先生のアドバイスが利いたせいでもないだろうが、山田詠美は作家になり、いまでは彼女の小説が高校の教科書に載っている。山田詠美はこの先生に会ってみたいという。「今なら、私は勉強ができないと、と開き直れるのだが」と書いている。この小説は「勉強ができない」ことを逆手にとって、「本当の勉強とは何か」を、読む人の胸に訴えかけてくる。十七歳の高校生をみくびっていはいけない。時田秀美は学校の勉強こそできないが、実は「人生の勉強」の達人なのだ。山田詠美がそうであったように。


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