橋本裕の日記
DiaryINDEXpastwill


2003年11月10日(月) こうもりの空

28.夜は千の目を持つ

 入院してからは熱も引いてそれほど気分も悪くなかった。それでも、一週間ほど入院していた。退院できると聞いたときは嬉しかった。
 祖母と一緒に病室を出るとき、私は壁に書かれた落書きのいくつかを日記帳に写した。どれもこの部屋に入院していた患者が書き残したもののようだ。その中に、横文字で書かれたものがあった。

   The night has a thousand eyes,
   And the day but one;
   Yet the light of a bright world dies
   When day is done.

   The mind has a thousand eyes,
   And the heart but one;
   Yet the light of a whole life dies
   When love is done.

       - Francis William Bourdillon

「夜は千の目を持つ、しかし、昼は一つだけ」
 横文字には、こんな日本語の訳がついていた。夜空を彩る星星に「理性」を、昼を照らす太陽に「愛」を象徴させ、理性に対して愛の優位を歌っていた。しかし、私は「夜は千の眼をもつ」というフレーズから、夜の世界の不思議にひかれた。私は蝙蝠と遊んだあの屋根裏部屋の淋しいさを思い出した。千の眼を持つ夜の神秘は、どこか隔離病棟で味わった死の冷たさに似ているように思われた。

 退院を前にして、私と祖母は病院の風呂に浸かった。消毒液の匂いのする湯から上がると、入り口とは反対側の出口に歩いた。下着や服は母が買ってきたという新品のものを身につけた。外に出ると、私は少しふらついた。秋の日差しを浴びて、街が輝いていた。街路樹を渡る風の匂いがさわやかだった。

 出迎えた母と叔母が私の手をとった。白い帽子を斜めにかぶった叔母が私を見つめて、
「裕ちゃん、何だか変わったわ。背がのびたのかしら」
「宇宙は無重力だからね、成長が早いのさ。その帽子、すてきだね」
 叔母は笑いながら、白い帽子を私の頭にかぶせた。病院を出て、タクシー乗り場に歩いた。母が私の手を握ったまま、
「ヨーロッパ軒のカツ丼食べようか」
「やったね」
 木洩れ日の中で、私たちの影が木の葉のようにゆれていた。

 (「こうもりの空」を終わり、次回からは書き下し小説「初秋」を連載します)


橋本裕 |MAILHomePage

My追加