橋本裕の日記
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2003年10月23日(木) こころの手足

 今日もまた「日蓮と一念三千論」をお休みして、そのかわりに「こころの手足」という本を書いた中村久子さんのことを紹介しよう。彼女は1899年、3歳のとき特発性脱疽にかかり、高山の病院で両手両足を切断。さらに7歳のとき父を失い、母と祖母と弟と一緒に貧乏のどん底に落とされる。なにしろ戦前の事だから、充分な生活保護もなく一家の生活は困窮を極めた。

 母はやむなく彼女を連れて再婚し、祖母は親戚へ、弟は施設へ引き取って貰う。こうして一家離散の中で新しい生活が始まったものの、彼女は義理の父親の家では余計者であり、母親ともども肩身の狭い思いをした。思い詰めて死を考える母を見て、彼女は1916年(大正5年)、20歳の時高山を離れ、無手足の身に裁縫・編み物・刺繍・口での糸結び・短冊書きを芸として、「だるま娘」の看板で見せ物小屋に出て、自活する道を選ぶ。

 やがて、弟、母、祖母が次々と死んでいく。そうした中で、彼女は見せ物小屋で知り合った男と結婚し、一児をもうけるが、やがて頼みの綱の夫が病死し、手足のない彼女は幼い娘と二人で残される。しかし、彼女はこの苦境にも耐えて、二度目の結婚をする。

 この二番目の夫との間に一女をもうけ、親子4人にようやくささやかな幸せが微笑むかと思ったのも束の間、関東大震災に見舞われ、さらに不幸なことに、バラックの中で二人目の夫までが病死してしまう。それでも彼女はめげないで、何と三人目の夫を見つけて結婚する。そして三番目の夫との間にも一女をもうけるが、この赤ん坊はすぐに死んでしまう。しかも三番目の夫は女を作って遊び回ってばかりで、やがて彼女は離婚を余儀なくされる。

 彼女はそれでもめげずに、二人の娘を女手一つで育て上げる。この間、身体障害者として国からの補助金は一銭も受け取らなかったという。そればかりではなく、リウマチで寝たきりになった友人の心配をして、生活費を送ったりまでしている。41歳の時東京日比谷公会堂でヘレンケラー女史と出遇い、口で作った日本人形を贈った。ヘレンケラー女史は「私より不幸な、そして偉大な人」と久子女史に言葉をおくったという。

 46歳の時、興行界より身を引き「歎異抄」をもとに求道生活に入り、執筆、講演、各施設慰問活動を始める。1950年、54歳の時、高山身障者福祉会が発足して初代会長に就任。1968年3月19日、高山市天満町の自宅において逝去。享年72歳だった。

 彼女は戦後、NHKの「人生読本」に出演して、「御縁」という題で話をしている。そのなかで彼女が大好きだと言って紹介したのが、甲斐和里子さんの歌だった。

 悲しみはみなとりすててうれしさの数のかぎりをかぞえてぞみん

 これだけの体験をしながら、その不幸に押しつぶされることもなく、「手足はなくても、目や耳や口がある。子供がいる。いのちさえあれば、うれしいことがたくさんある。ありがとう」と仏様に感謝しながら生きてきたという。山田無文という禅宗のお坊さんが、中村久子について、「嘘ばかりが多く、本物の少ない今の世の中に、久子さんの声を、言葉を聴いているだけで、この人は本物だと思う」と書いている。久子さんが死んで、30年余りになるが、彼女の人生はいまだに光りを放ち続け、私たち健常者にも生きる勇気と希望を与えてくれている。

<この自伝小説は、私に人間の本当の生き方を教えてくれた大切な方から貸していただきました。中村久子さんの講演テープも聞きました。昭和43年に亡くなっておられますから、だいぶ古いものです。でも、贅沢な今の時代にこそ、このような時代を生き抜いてこられた中村久子さんのことを知って欲しいと思います。きっとこれからの生きる糧となると思います。この本を読んでから、私はどんな困難がきても、こう思うようになりました。私には手も足もあるじゃないか。なんだってできるよ>

 上に引用したのは、たまたまあるHP(石山雅雄「ぴあの屋ドットコム」http://www.pianoya.com/)で発見した、「こころの手足」を読んだ人の感想の一部である。私が「こころの手足」を読んだのは十数年も前だったが、その頃、私もいろんな人にこの本をすすめたものだった。最後に、中村久子の歌を一首紹介しよう。

 手足なき身にはあれども生かされるいまのいのちはとうとかりけり


橋本裕 |MAILHomePage

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