橋本裕の日記
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2003年10月19日(日) 人生に四時あり

 伊藤博文は69歳まで生きた。最後は暗殺で幕を閉じたが、その人生は充実していて、大河のようである。新国家建設という大業を、彼は多くの人の協力をとりつけながら率先して行った。明治天皇の威光がその背後にあったとはいえ、これはなかなか骨の折れる大業である。伊藤の偉いところはこれを嬉々として、上機嫌で行ったように見えることだ。

 栄耀栄華を極めた政治家・伊藤博文の幸福で堂々たる生涯にくらべると、思想に生き、思想に殉じた吉田松陰の29年間の生涯はほんとうに短い。もし伊藤博文が29歳で死んでいたら、彼は何ら歴史に名前も痕跡も残さなかっただろう。しかし、吉田松陰は29年の生涯ですでに揺るぎない名望をわが国の歴史に刻んでいる。その29年の生涯の放つ輝きは、伊藤博文の69年の生涯をはるかに凌いでいる。

 このことについて、吉田松陰自身がその遺書「留魂録」のなかで、「十歳にして死する者は十歳中自ら四時あり」と味のあることを言っている。人間はたとえ何歳で死んでも、その人生なかに春夏秋冬の四時をしっかり備えているというのだ。その部分を、「日本の思想19、吉田松陰」の現代語訳で紹介しよう。

<僕は年を数えて30歳になる。一事をなすことなくして死ぬのは、あたかも農事で稲のまだ成長もせず、実もつかず、という状態に似ているのだから、残念だと思わないではない。しかしいま義卿自身としていうなれば、これもまた秀実のときである。

 何故なれば、人間の寿命は定めなきものである。農業における収穫の必ず四季を経過しなければならないのとは違っている。十歳で死ぬる者にはおのずから十歳の中に四季がそなわっており、二十歳には二十歳の、三十歳には三十歳のおのずからなる四季があるのだ。

 十歳では短すぎるというのは、数日しか生きない夏蝉の運命をして、百年も千年も経過した椿の木の寿命にひきのばそうというものである。また百歳を以て長いというのは、その天寿の椿を、短命な夏蝉にしようとすることだ。どちらも天命に達しないというべきだろう。

 義卿は三十、四季はもう備わっている。成長もし、また実りもした。それがしいらであるか充分実の入った穂であるかは僕の知るところではない。もし同志の士に、僕の微衷を憐れんで、それを受け継いでやろうという人があるならば、そのときこそ、後に蒔くことのできる種子がまだ絶えなかったということで、おのずから収穫のあった年に恥じないということになろう>

 すべての人生に四時があるというこの言葉は、28歳で死んだ高杉晋作にもあてはまる。晋作は幕府との戦いを勝利に導いた長州藩の救世主であるばかりではない。じつは日本国を揺るがす革命の導火線に火をつけた英雄である。しかし、28歳の彼はまだ家督をさえ継いでいない一介の書生に過ぎなかった。藩主は高杉の胸の病が篤いと聞いて、いそいで彼に百石取りの碌を与えている。これを聞いた高杉は「百石あれば飲める」とよろこんだという。彼の臨終の様子を、司馬遼太郎の文章で紹介しよう。

<晋作は辞世の歌を書くつもりであった。ちょっと考え。やがてみみずが這うような力のない文字で、書き始めた。
 おもしろき こともなき世を おもしろく
 とまで書いたが、力が尽き、筆を落としてしまった。

 晋作にすれば本来おもしろからぬ世の中をずいぶん面白くすごしてきた。もはや何の悔いもない、というつもりであったろうが、望東尼は、晋作の句の尻切れとんぼの辞世に下の句をつけてやらねばとおもい、
「すみなすものは 心なりけり」
 と書き、晋作の顔の上にかざした。

 望東尼の下の句は道歌めいていて晋作の好みらしくはなかった。しかし晋作はいま一度目をひらいて、
「……面白いのう」
 と微笑し、ふたたび昏睡状態に入り、ほどなく脈が絶えた。ただその間、一度唇がうごき、みじかくつぶやいた声を聴いた者がある。
「……吉田へ」
 という言葉であった。> (「世に棲む日日」文春文庫)

 伊藤博文は日清戦争のあと下関にきて、酒席に芸者を呼んだことがあった。そのとき芸者が三味線にあわせてうたったのが、こんな歌だった。

 桜墨 活けた炬燵にうたたねすれば
 夢じゃ吉野の花盛り

 この歌は、高杉晋作が作り、自ら三味線を弾いてうたっていたのだという。その歌が下関の花街にいまだに唄われている。しかしだれもそれが晋作の歌だとは知らない。伊藤はこの歌を繰り返し唄わせ、聴きながら涙をうかべて往時をしのんでいたという。


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