橋本裕の日記
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明治維新(明治元年)のとき、伊藤博文は28歳だった。ちなみに明治天皇は17歳の若者である。西郷隆盛は42歳、大久保利通は39歳だった。吉田松陰が生きていれば大久保と同じ39歳だった。山県有朋31歳、井上馨34歳。こうしてみると、その若さが目立っている。なかでも二十代の伊藤は最年少の若輩である。
新政府での伊藤の最初の役職は「外国事務係」だった。英国への留学体験があり、外国の事情に通じていて、英語ができることが伊藤の強みだった。伊藤は英国から金を貸りて、日本に鉄道を敷くことに着手する。鉄道は明治3年に起工され、二年後に開通した。
鉄道の次は、通貨の改革をした。金融制度を調査するためアメリカに行き、帰国すると造幣局をつくった。それから彼は今の建設省を作ることを進言し、これが実現すると自らその初代の長官(工部大輔)になった。また、伊藤は「廃藩置県」を熱心に建議した。そしてこれが実現すると、初代の兵庫県知事になっている。こうして伊藤は着々と明治政府の基礎を築いていった。
明治4年には、岩倉具視が全権大使となり、大久保利通、木戸光允、大久保利通などとともに伊藤は案内役として随行した。この旅行は10ヶ月という長いもので、アメリカやイギリス、ドイツなど欧米12カ国を訪問し、先進技術と西洋文明の調査、研究を行った。ドイツで伊藤と大久保はビスマルクにあっている。このとき大久保は心中ひそかに自分が日本のビスマルクになることを考えたようだ。
ところが帰国すると征韓論がもりあがっていた。大久保や伊藤は反対したが、三条実美は陸軍大将・西郷の迫力にまけてこれを可決してしまう。大久保は怒り、参議を止めると言い出した。そこで伊藤は夜中に岩倉具視を訪れ、仮病をつかうことをほのめかした。岩倉はさっそく三条を訪れ、伊藤の秘策を打ち明ける。そして二人ともにわかに病になって、家に籠もったまま天皇の詔勅をもらおうとしなかった。これに今度は西郷隆盛が怒り、参議を辞して下野した。このあと西南の役が起こったが、大久保と伊藤は明治新政府最大の危機を「天皇の宸断」を使って乗り切った。
その大久保が明治11年5月14日の白昼、西郷心酔者の兇刃に倒れ、49歳の生涯を終えた。伊藤は大久保の後をついで内務卿になった。明治15年、伊藤は憲法を作るためにヨーロッパに行く。一年半の出張ををえて帰国すると、華族制度をつくり、自らは伯爵になった。イギリスの上院にならい貴族院をつくるための布石だった。一方で文官試験の制度を作り、有能の士はだれでも官職につけるようにした。
そのあとも、伊藤の精力的な活動が続く。太政官制度を廃止し、内閣制度を作り、44歳の時に(明治18年)自ら初代の内閣総理大臣になった。このとき山県有朋を内務大臣につけている。明治21年、枢密院をつくり、伊藤は首相をやめてその初代の議長になった。枢密院で明治天皇の臨席のもと憲法草案が討論された。この間、当時3歳だった皇太子(昭宮猷仁親王)が薨去されたが、明治天皇は席を外さなかったという。このころ、明治天皇と伊藤博文はほとんど一心同体になっていた。
翌22年2月21日に念願の憲法が発布された。このとき伊藤博文は49歳だった。まだまだ脂がのりきった年齢である。このあと伊藤は3回も首相に任命され、枢密院の議長も務めた。政党をつくり党首にもなっている。こうして日本はまがりなりにも政党政治の時代を迎えた。明治38年、韓国統監就任。1909(明治42)年10月26日、ハルビン駅で韓国人・安重根の銃撃を受け死亡。享年70歳だった。伊藤の死後、武断派の山県有朋の主導のもと、韓国は日本に合併され、日本は大陸進出への道を歩むことになる。
伊藤博文は明治維新後、一度も萩に帰っていないらしい。28歳から70歳まで、40年以上一度も故郷の地を訪れないというのはどうしたことか。だれしも故郷に錦を飾りたいものだ。それをしなかったのには色々と訳があるのだろうが、もっとも単純な理由は彼に余裕がなかったことだ。彼の一生は多忙を極め、ひたすら走り続けた一生だった。彼の死後、萩に豪邸が建てられた。現在そこは伊藤博文邸として、歴史資料館になっている。これを見るとさすが明治の権力者の家だと思うが、実際は彼は一度もこの豪邸で暮らしたことはなかったのだという。
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