橋本裕の日記
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吉田松陰は、1854年(嘉永7年)に密航に失敗し、萩藩の「野山獄」に投獄された。その9年後の1863年(文久3年)、伊藤博文たち4人が今度は藩主の内命でイギリスに密航している。伊藤が23歳のときである。師の松陰が命がけで行ったことを、伊藤は藩の庇護のもとに行うことが出来た。時代が急速に変わってきた。
しかし伊藤がロンドンについて6カ月目に、長州藩が攘夷を実行し、下関を通過する外国船を砲撃したというロンドン・タイムスの記事に接して驚いた。英仏米蘭の四国連合艦隊が、この報復として下関を攻撃を準備しているという。伊藤の目には西洋列強の文明は圧倒的に進んでいるように思えた。これでは藩が滅亡する。何とか止めさせねばならない。そこで急遽、井上と二人で帰国することにした。
イギリスの軍艦で長州に送り届けられた二人は必死に戦争の無謀なことを説くが、これに理解を示したのは高杉晋作くらいで、攘夷で暴走し始めた藩の方針を変えることが出来ない。井上は藩の刺客に襲われて瀕死の重症を負い、伊藤と高杉は刺客を逃れて身を隠さなければならなかった。そして長州は四国艦隊の砲火を浴びて、あえなく降参。藩はあわてて、伊藤を使って講和の交渉をさせた。このとき藩主の名代にさせられたのが高杉晋作だった。巨額の賠償金を要求されたが、高杉は「長州は幕府の命令にしたがったまでだ。幕府に要求したらよかろう」と言って譲らず、とうとう賠償金を幕府に押しつけてしまった。
その後、藩は尊皇を旗印に京都に攻め上るという暴挙に出た。これが失敗して長州征伐がはじまった。会津、薩摩といった全国の雄藩が幕府の主力となって押し寄せてきたからたまらない。藩の保守派は主戦派の三家老の首を差し出して恭順の意をあらわした。高杉晋作や伊藤は主戦派ではなかったが、藩が保守派に主導権を握られたので、身の危険を感じて身を隠さなければならなかった。
ところが突如、高杉晋作が亡命先の九州から帰ってきて、これから兵を挙げて、城に攻め上るのだといいだす。高杉は「奇兵隊」の創始者で初代総督だが、そのころすでに総督は赤根武人になっており、実践部隊の実権は山県有朋が握っていた。奇兵隊は藩の正規の軍隊ではなく、農民や部落民や他藩の流れ者などで構成されたゲリラのような武装組織で、その構成メンバーによっていくつかの小隊に別れていた。ちなみに伊藤は力士たちからなる「力士隊」の隊長だった。
藩を牛耳っている保守派は奇兵隊をつぶす気でいる。このままじり貧に追い込まれ、解散させられてしまうのも口惜しいところだ。総督の赤根は保守派に取り入り、政治的に解決しようとしていたが、その前途は暗かった。高杉は山形有朋以下の諸隊の隊長を密かに集めて決起をうながすが、山形有朋はじめだれも同調しない。山形は醒めた目で高杉に向かい、最後まで首をたてに振らなかった。
クーデターが成功する望みは万が一にもない。それにたとえ成功したとして、長州は幕府と戦えるのか。幕軍はすでに長州をとりまいていた。クーデターが起こったと知れば、雪崩を打って攻め込んでくるだろう。「高杉の狂気のために藩を滅ぼしていいのか」という思いが山形の胸中にあった。負けると分かっている戦をするわけにはいかない。
伊藤も黙っていた。しかし皆が帰った後も、残っていた。その伊藤に、高杉は声をかけた。力士隊だけでも決起するというのだ。しかしその数は30名に満たない。これで何万という藩の正規の部隊を破り、萩城を奪回しようと言うのだから驚きである。ところが高杉はいまから下関に走り、10人でもよいから集めておけという。誰が見ても勝ち目がない戦いで、勝算はなく、死は確実なように思われた。しかし、伊藤はこのとき勝算を度外視して高杉についていこうと思った。
<伊藤は、馬で夜道を奔った。かれは普通の藩士階級の子とはちがい馬術を学ばなかったから、馬にはうまく乗れなかった。いそぐために一鞭あてると、馬が異様な早さで走り出した。伊藤はたてがみにしがみついた。馬にくらいつきながら、馬関(下関)での大仕事を思った。 (おれはもう死んでいるのだ。死霊が駈けているのだ) そう思え、と自分に言いきかせた。総督の赤根武人は伊藤を「才子」とあざけったが、たしかにこの若者は多少の軽薄さをもった才子であった。かれがもし、この時期、長府・下関のあいだを死霊になった気で奔ったという意外な一面がなかったならば、かれは生涯単に才子として終わったかもしれない>(「世に棲む日被」司馬遼太郎)
奇跡は起こった。高杉決起の報を聞いて、山形の部隊200名が蜂起した。そればかりではない、農民が立ち上がり、正規の藩兵までがこれに同調した。山形有朋が立ち上がった背景には、土佐藩士長岡慎太郎の働きかけもあった。長岡が長州へ駆けつけてきたのには訳があった。長州藩が幕府に破れて没落すると、たちまち天下のあらゆる藩が幕府へとなびき、藩内の勤皇勢力をいっせいに弾圧し始めた。諸藩で投獄・斬首が相次いでいた。
このままでは革命は夢物語になる。長岡はもしここで高杉が敗れれば、もはや日本の大事はならないと考え、「高杉と山形らの数百人がもはや天下の恃みである。この火が消えれば日本の大事は永遠に去るであろう」と、戦場にあっても山形を激励した。そしてその甲斐があって、奇兵隊の武力蜂起は成功し、長州は尊皇倒幕の藩となって、日本に革命の火だねが残った。
なおこのとき蜂起した200名あまりの奇兵隊の中から、明治の顕官が綺羅星のように生まれている。公爵・元勲・総理大臣になった伊藤と山形の他に、伯爵・元帥の寺内正毅、子爵・中将の三浦梧楼、子爵・中将の三好軍太郎などがそうである。
ところで、この動乱のさなか、吉田松陰の兄・杉民治が登城し、藩主毛利敬親に面会して、「いまにしてこの兵乱を終息させねば、人民の疲労、防長二州の衰退、はかるべからざるものがありましょう」と言上している。敬親は動乱がおさまったあと、「すべて自分の不徳不明よりおこったこと」と藩民に向けて異例の論告文を発した。
こうして佐幕の保守派は政事堂より一掃され、かわりに倒幕派で高杉の同士が二人はいった。一人は松下村塾で一緒だった前原誠一であり、もう一人は井上聞多(薫)である。功労者の高杉は政事堂に入ることを嫌い、伊藤をともなって、下関で芸者あそびに興じた。そのあと長崎に飛んだ。そこでイギリス商人グラバーに会っている。このグラバーから購入した軍艦がきたるべき幕府との海戦で活躍することになった。 その軍船を下関に運び、ついでにその艦長となって幕軍との戦争に参加したのが坂本竜馬だった。竜馬は自分の師匠の勝海舟が幕府の軍艦をひきいてきても、これと一戦を交えるつもりだったようだが、そういう事態にはならなかった。その前に幕府が退散してしまったからである。幕府が地方の一藩を相手に戦いをしかけ、兵力で圧倒的な優位にたちながら、しかもこれに完敗するなどということは思っても見ないことだった。幕府の威信は崩れ、死に体であった全国の勤皇党が息を吹き返した。幕府が崩壊するのはもはや時間の問題だった。
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