橋本裕の日記
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| 2003年10月16日(木) |
平凡な偉人・伊藤博文 |
伊藤博文は近代国家日本を建設した第一の功労者である。その功績が認められて、お札の顔にもなったが、どうも人気というといまひとつだ。彼は百姓の子として生まれ、のちに下級武士の養子になったが、身分制度の厳しい封建社会でずいぶんと肩身の狭い思いをしただろう。
彼は身長160センチ、容貌もぱっとせず、外見上もこれという特徴はない。無類の女好きで、妻にした梅子は花柳界の女。若い頃は随分無茶をして、佐幕派の人間を暗殺したこともあるらしい。そんな男が総理大臣を4回も勤め、明治天皇の覚え愛でたく、枢密院議長、元勲、公爵という最高権力者になった。この破格の出世男に対して、世間のやっかみもあっただろう。
幕末・明治に活躍した人たちの人気ベスト・テンをあげれば、坂本龍馬、西郷隆盛、木戸光允、高杉晋作、大村益次朗、勝海舟、山岡鉄太郎、近藤勇などがあがり、伊藤博文はおよそその圏外、というよりワースト・ベスト・テンのトップを占めるのではないか。童門冬二著「伊藤博文」の解説を書いた石井冨士弥さんはこう書いている。
<松下塾生の時点では、低い身分と持ち前の気軽な調子の良さから軽んじられ、ほとんどの他の同門生の人物伝で扱われるときには、端役・脇役でチョコマカ動き回る便利屋程度に描かれるぐらいしかためしのなかった伊藤利助こと博文が、後年、同塾の先輩・同盟者を遙かに越え、たとえ狡智な人心遊泳術・出世欲・女好きと三拍子そろった人格からふりまかれる悪評・非難・醜聞・中傷にまみれながらも、われわれの現在ある日本を世界的「列強」の一つに仕上げる礎を創ってみせた巨大な史上人物であることは、厳然たる事実なのである>
青春とは人生の一時期をいうのではない 心の様相をいうのだ 年を重ねただけで人は老いない 理想を失うときにはじめて老いがくる 歳月は皮膚のシワを増すが 情熱を失うときに精神はしぼむ
童門さんは「伊藤博文」の「あとがき」にウルマンのこの「青春」という詩を引いたあと、「伊藤俊輔が、こんな理想に燃えた立派な人間だった、とは思わないが、青春児ぶりは死ぬまでつらぬいていたような気はする。特に彼の本能的な、「好奇心」「上昇志向心」「女好き」は、青春にとって欠くことのできない条件だ。そのすべてを伊藤博文はもっている」と書いている。そして、彼の成功の秘訣として、彼が人との「出合い」に恵まれていたことをあげている。
すべての始まりは、彼が長州藩の吉田松陰の家のすぐ近くに生まれたことであろう。松陰の塾に通うことで、彼は久坂、高杉を知り、桂小五郎からも厚遇をうけた。山県有朋や井上馨とは同輩である。彼はさらに長州藩にとどまらず、大久保利通のような他藩の有力者からも眼をかけられ、腹心として可愛がられた。ふたたび童門さんの言葉を引こう。
<なぜ、かれを選んだか、といえば、かれほど幕末維新時の、多くの人材に遭遇した人間はいないからである。人間の一生は「人との出合い」によって貫かれる。会う人によって大きく変わることもあるが、会った人をどう消化するかによっても、大きく変わる。他動・自動の両面がある。人に遭う、ということは、自分の肥料を得るということだ。
その点、伊藤博文は会う人をことごとく、自分の内部に消化して行った。文字通り、「人を食って」生きて行ったのである。青春、というのは、この飽くなき人との出合いに燃焼させる、自己の生命の輝きではなかろうか>
伊藤利助が伊藤俊輔になり、そして伊藤博文になった。その過程で、彼は錚々たる大人物に出合い、彼らの影に身を置きながら、自らを大成させていった。大人物の多くは志し半ばに倒れたが、さいわいにして彼らは伊藤博文のなかに生き続けた。そして近代日本建設という偉業を伊藤博文の手に委ねたのである。伊藤博文はこの自分に委託された事業を成し遂げるために「しぶとく」生き延びなければならなかった。
伊藤博文は温厚で人を退屈させない話術の持ち主だったが、ときには本気で怒るときもあったという。日露戦争の後、清国にいすわり続けて軍を引こうとしない軍部に対して、彼は西園寺首相をはじめ、要職にある者をあつめて、その席上、桂太郎陸軍大臣、児玉源太郎参謀総長など軍関係者に対して、窓ガラスがふるえるほどの大声でどなりつけたという。
ハルピンで暗殺されたあと、遺言を見ると妻の梅子には10万円を送って欲しいと書かれてあった。しかし残された遺産はその半分もなかったという。金銭には無頓着で、清廉とはいえないまでも、地位を利用して財産を作ろうということは考えたことがなかったらしい。彼の死後、多くの人が彼の人柄をしのんで追悼文を書いている。その中から、犬養毅と尾崎行雄、それから盟友であった井上馨の文章を紹介しよう。
<伊藤公とはさほど親しい仲ではなかったが、立憲的政治家であったことは断言できる。明治25,6年ごろの政界といえばひどいもので、暴力、金銭が横行していたが、彼は賄賂を使わず、受け取りもしなかった。平和主義の政治家として世界的に有名で、日本の信用を高めていた。この点、その死は大きな損失である>(犬養毅)
<私が政治に関係したのは、明治14年。その時から16年ほど、伊藤公を正面の敵として戦った。なぜそうしたかというと、ただ、われわれの先輩がむやみと攻撃するから、それにくっついてやっていたのにすぎない。彼こそ専制政治の権化、民権や自由や立憲政治の敵とみた。そのうちに、ふしぎな気分になった。公は決して卑劣な手段で応戦しない。時たま詔勅を請うてことをおさめることはあったが。そして、しだいに敬服するようになり、公が政友会を作ると、私は自分の判断でそれに入り、彼の味方になった。なにごとも調和的な人。最大の欠点は女好きであるが、それも女に溺れることはなかった。天真らんまんで、子供のように無邪気な人だった>(尾崎行雄)
<維新の少し前、私は11人の刺客のため全身に重症をおった。さいわい命はとりとめた。伊藤はかけつけ、涙をぽろぽろ落とした。それが私の顔にかかったので、私もこらえきれず、涙が湧きだしてきた。口がきけなかったので、手真似で早く帰らぬとおまえもこんな目にあうぞとせかせたが、伊藤はなかなかそばをはなれなかった。思い出すと昨日のことのようで、胸を針でさされるような気持がする>(井上馨)
伊藤博文は朝7時に起きて、朝食は梅干しひとつと日本茶だけ、食事はいつも質素だったという。家に人を集め、ばか話をして楽しんだ。よく語り、よく笑うひとだったようだ。彼自身の残した文章に、「世間、大礼服の我を知り、紋服の我を知る。いまだ浴衣がけの我を知るもの少なし」というのがある。ざっくばらんで庶民的、過激な理想に走らず平凡を愛し、現実的な中庸の政治を実践した。昭和17年に書かれた伝記「伊藤博文」の中で、著者の中村吉蔵は最後を、こんな風に結んでいる。
<もし明治日本がこの平凡な偉人に引率されずに、覇気満々の自信家の手にあったら、ずいぶん危険なせとぎわに引き込まれていたことだろう>
引用した追悼文や中村の文章は、星新一著「明治の人物誌、伊藤博文」(新潮文庫)のなかで見つけたものだ。星新一は亡父との関わりで伊藤博文について調べ始めたが、最初は旧千円札の顔を見ながら、「こいつは薩長藩閥の元締めで、権力主義者で、大陸侵攻へと国の方針を押し進めたやつにちがいない。尊大な顔をしている。気が進まないな」と思っていたという。それが調べていくうちに、嫌悪感から愛着、そして尊敬へと見方が変わってきた。
<彼は大きな目標とか、主義主張とか、理想とかをかかげ、それを目差して進むという性格ではない。そのために挫折をすることもないかわり、国民的な人気もでない。冷静な情勢判断力を持った、現状改善の才に恵まれた実務的な人間なのだ。また、にくめない人柄でもあった。威圧感も与えないかわりに、大人物あつかいもされない。西郷隆盛とは好対照だ>
<明治期の日本という、どこへ暴走するかわからないしろものを、彼は巧みにハンドルをあやつり、ブレーキをかけ、安全運転をやった。みごとなものである。それにしても、こんなにも描きにくい人間はめったにいない。しかし、政治家はこうあるべきなのだろう。波瀾万丈の人物は書く方も読者も楽しいが、そんなのに政治をやられた場合、大衆はおおかた好ましい状態ではないのだ>
伊藤博文は吉田松陰の弟子だが、ひとからそう言われるとこれを明確に否定したという。松陰はすぐれた思想家だが、すぐれた政治家になれたかどうかあやしい。松陰は伊藤博文を「周旋家」と読んだが、伊藤博文はこれを聞いて、さすが師匠だと、苦笑いをしたのではないかと思う。松陰は「敵を知り、自らを知れ」と門弟に教えた。伊藤博文は日本という国の立場や実力をよく知っていた。そして自らを知ることにおいてもぬかりはなかった。この意味で、彼も又松陰のよき弟子であったといえよう。
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