橋本裕の日記
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今日も引き続き、6月21日犬山市民文化会館での寺脇研さんの講演「これからの教育」の紹介である。今日は最終回である。私たちは何のために学ぶのか。学ぶことの意味は何か。また何故一生学び続ける必要があるのか。寺脇さんの語りかけに耳を傾けてみよう。
(三) 学ぶことの意味
手段を目的化するというあやまりは、大きく言って教育全体にまで及んでいます。「百マス計算」のことを例に挙げましたが、これは現代の学校教育の問題でもあるわけです。学校教育は大きく言えば生涯教育の一環です。そしてその目的は「普遍的にして個性豊かな文化」を一人一人の中に育み、自らでこれを育てる力を養うということです。つまりは私のいう「文化力」を育てるということです。
それではなぜ、そうした文化力を一人一人が育てていかなければならないのか。それは私たちが豊かで楽しい人生を実現するためなのですが、それだけではありません。それは私たち一人一人が自分で考え判断する力を養成することによって、はじめて文化的で民主的な社会が実現するからです。つまり、私たちは一人一人が主権者であり、社会の現実に責任をもっているからです。私たちの子供は未来の大人であり、この社会を住み易くしようと思ったら、私たちは子供の教育に配慮し、それに相応しい教育を考えなければなりません。
私たちはなぜ学ぶ必要があるのか。それは心を広く豊かにすることです。つきつめて言えば「バリアフリー」ということです。他者との交流を阻んでいる多くのものを、次々に克服していく、それが学ぶということです。私たちの身体は有限ですが、頭脳に詰め込まれる知識は無限です。しかしそれ以上に無限で豊かな世界がある。それが「こころ」の世界です。その「こころ」の世界を開拓し、耕すことが本来の勉強であり文化力を身につけるということです。そのためには単に「頭を鍛えるだけの教育」ではなくて、「心を耕す教育」が志向されなければなりません。
もう少し卑近な上げましょう。たとえば道端に自転車が放置されていたとします。そのとき「じゃまだなあ」と考えたとすれば、それはその人の心が狭くて、「自分だけ」しか住まわせることができていないからです。「お母さんや妹が困るだろうな」と考えたら、その人の心に中に家族が住んでいます。さらに心が広くなると、お年寄りのことが心配になります。幼い子供がその下敷きになったらどうしようかと心配になります。
さらに広がったらどうなるでしょうか。この地球には六十億人の人々が暮らしています。もし、一人一人の人間の心に自分だけではなく、親兄弟だけではなく、学校の友達だけではなく、あるいは日本人だけではなく、アフガニスタンの子供たちや、イラクの人々や、世界中の人々を住まわせることができたらどうでしょうか。そのとき私たちに戦争が出来るでしょうか。政府が戦争をするのを傍観視できるでしょうか。
最初に、この十年は決して「失われた十年ではない」と言いました。十年前、あのバブルの頃、私たちはたしかに経済力はあったかもしれません。そして経済力にものを言わせて、世界の名画を買いあさったりしました。しかし、それは多くは投機のためでした。お金を儲けるための打算でそうしていただけです。お金の力にものを言わせて名画を買うことは「文化」でもなんでもありません。文化とは心のゆたかさなのですから。
恥ずかしいことですが、そのころ私も心を失っていました。出張で新幹線に乗るわけですが、子供が騒いでいたりすると凄く腹が立っていらついたものです。小さな子供が嫌いでした。つまりそのころの私の心は彼らを受け容れられるだけ広くも豊かでもなかったのです。その私が今、休みの日には人様の子供を預かっています。まだ自分でお尻も拭けない幼い子供もいます。そんな子供を預かり、そしてお尻を拭いてあげます。
この十年間で日本は変わりましたが、私も随分変わりました。この変化を私は歓迎したいと思います。そしてこれからの日本はもっと変わります。この私たちが変わり、日本が変わっていくことで、世界が変わります。そしてそのために必要なのが、私たち一人一人が学び続けるということ、そして「文化」を育て、心を豊かで深いものにすることだろうと思います。そしてそのために何をしたらよいか、その手段をみんなで知恵を出しあって考えていく必要があります。 (平成十五年六月二十一日 犬山市民文化会館における講演より)
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