橋本裕の日記
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2003年09月24日(水) 総合学習の実践

 今日も引き続き、6月21日犬山文化会館での寺脇研さんの講演「これからの教育」の紹介である。寺脇さん自身が指導的にかかわった総合学習の実践例をとおして、その意義と成功の秘訣を具体的に語ってもらおう。

  (二) 総合学習の実践

 私は去年から京都の小学校で総合学習のお手伝いをしています。小学校五年生のクラスで、「どんな地域社会を作るか」というテーマで一年間実践しました。自分たちが住んでいる町を自分たちの手で作り変えていこうという学習です。そのためにはまず調査をしなければいけません。あるグループは幼稚園へ出かけて聞き取り調査をします。また別のグループは老人や障害者のいる施設に行きます。そして色々な人から要望や問題点を聞きます。

 そうした調査から、町のさまざまな問題点が明らかになってきました。そして討論の結果、街づくりに大切なことのひとつに「バリアフリー」の問題があることに気付いたのです。この問題を中心にもう少し深めてみようということになりました。
「バリアフリー」というのは「バリアがない」ということで、具体的には町の歩道や施設の内部をお年寄りや障害者に便利なように作り変えたり、点字ブロックを作ったりしてなるべく不自由のないように変えて行くということですが、しかし実際にこれを行おうとすると、いろいろな問題があることがわかってきました。

 つまり、予算とか政治の仕組みとか、健常者の不便とか、現実にはいろいろな障害があることがわかってきます。自分たちで出来ないことがあるということに気付きます。それではどうしたらよいのかという新たな課題が発生するわけです。もっといろいろなことを勉強しないといけないということに気付きます。勉強が嫌いだった子がそんなことを考えるようになりました。

 できないことが分かるということが大切なのです。なぜなら、それは何ができるかということの裏返しでもあるからです。できることは何か。それを見つけて、先ずはできることをやろうということになります。事実生徒達はそうした方向で動き出しました。たとえば、学校内でできる限りバリアフリーを実現しようとしました。落差をなくしたり、点字の案内板を作ったりすることです。

 しかし、そのために点字を勉強したり、手話を勉強したりする必要が出来てきました。そうした子供たちの運動を見守ってきましたが、私はあえてここで「どうしてバリアフリー必要なのか」という突っ込みをいれてみました。そうすると「目や身体の不自由な人がかわいそうだから」という答えが多くの生徒から返ってきました。「かわいそうだからやるの」とさらに突っ込みをいれていくと、やがて子供達は単なる同情からではない、もう少し別の視点が可能であることに気付いていきます。

 じつは「身障者はかわいそうだ」というのが自分たちを中心にした視点なのです。身障者の立場に立てば、もっと別の視点があるということです。それは何かというと「不便」ということです。身障者のこの不便さを解消することが「バリアフリー」だということがわかってきます。さらに私はつっこみを入れました。そもそも「バリアとは何か」という本質的な問いかけをこの段階で子供たちにしてみたのです。

 障害者の立場にたつことによって、この問いもさらに深められます。そして子供たちはもっとも大切なことを知ります。バリアとは具体的な階段や歩道の落差といった物理的なのものばかりではなく、実は私たちの心の中に存在しているものだということです。バリアとは結局、身障者と健常者を隔てている壁ではないかということです。こうして子供達は心の目で物をみることを学び始めるのです。

 そこでさらに、「なぜバリアを取り除く必要があるのか」という問に、さらに深い答えが見出されます。「かわいそう」でも「不便」でもなく、もっと深く本質的な答え、それは「おなじ人間として一緒に楽しく暮らしていけるから」という答えです。物理的な垣根をなくし、心の垣根をなくし、人と人が自由に交わることのできる社会、そうしたお互いにとってゆたかで自由な楽しい社会を作ることこそが本当に大切なことであり、それこそが「バリアフリー」の本当の目的であり理想であることが納得されるのです。

 そうすると、手話を学んだり、点字を学ぶことも、そうした人々とコミュニケーションすることのためだということがわかってきます。なぜ英語を学ぶのか。それは歴史も文化も違う人々とこの地球で同じ人間として理解し合い、コミュニケートするためです。実はこれも「バリアフリー」ということなのです。子供たちの認識はどんどん深く広くなっていきました。

 人はなぜ学ぶのか。どうしたときに心の底から学びたいと思うのか。その根底に「バリアフリー」があることはあきらかでしょう。感動的だったのは点字や手話を勉強し始めた子供たちが、自分たちで進んで漢字の勉強はじめたと聞いたときです。「どうして?」と尋ねると、子供たちは「東京の寺脇先生に手紙を書きたいから」と答えました。大人に手紙を書くからには、しっかりとした漢字で文章を書きたいというのです。漢字を知らなければ大人としっかりしたコミュニケーションができないということに気付いたのです。

 一年間の総合学習でクラスはこんな風に大きく変わりました。最後の授業で成果発表をしましたが、その司会役に立候補したのは一年前までは人前で発言することもできなかった男の子でした。その子が見違えるように自信を持ち、みんなの前で堂々と司会をしてくれました。私がお手伝いした総合学習はこうして大きな成果を修めました。六年生になった彼らは、今年はまた別の総合学習にとりくんでいます。そのテーマは何かと思ったら「どうしたら世界はよくなるか」ということでした。この一年、子供たちが何を発見し、どんな風に成長していくかとてもたのしみです。

「総合学習」はしかしいつも成功するという訳ではありません。ときには成功し、場合によっては失敗します。それでは今度は失敗した場合の例をあげておきます。成功例と失敗例を比べれば、総合学習が成功するための条件があきらかになるかもしれません。

 これはある中学校の総合学習の例です。テーマは「自分自身のための新聞をつくろう」ということでした。そこで四十人の生徒に一台ずつコンピューターをあてがい、その新聞製作ソフトを使って新聞を作らせます。ところが、これが無惨に失敗してしまいました。しっかりした新聞を作ったのはんの一握りの子供たちだけで、多くの子供たちは悪戦苦闘したわりにたいした成果が収められなかったのです。

 その原因はいろいろ考えられます。まず、コンピューターを使う段階で多くの障碍がありました。総合学習がコンピューターの学習の場になってしまいました。それから新聞製作ソフトを使ったのも問題でした。これを面白がって使う子供もいましたが、けっきょくこれは子供たちをある枠の中にはめることになりました。総合学習で大切なのは、子供に何かを教え込むということではありません。子供のなかにある主体性とか創造性とか遊び心を引き出すことが重要です。そのための土俵造り、環境作りが大切なので、教師がこまかく指示をして、何かをやらせるということではいけないのです。

 それではどうしたらよいのか。一番大切なことは教師が「テーマの意味をはっきり理解すること」ではないでしょうか。「自分新聞をつくる」という総合学習の場合、その「目的は何か」ということです。それは「自分を自由に表現する」ということです。それでは何のために自分を表現する必要があるのでしょうか。それは他人との間にある垣根を取り払い、お互いに理解し、「コミュニケートする」ためです。

 なぜ新聞作りが楽しいかと言えば、根本にこうしたお互いに知らない部分を知り合い、友だちになれるということがあるわけです。そう考えると、なぜ「パソコンを使った新聞」でなければならないのか。手書きの新聞でもよいし、詩や小説でもよいわけです。それぞれの子供が、それぞれの特性を生かして、一番得意な方法で自分をアピールできる方法を発見させればよいわけです。単に手段でしかないものが目的になり、本来の目的を見失ったところに最大の問題があったのです。(第二回終わり。明日の最終回に続く)


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