橋本裕の日記
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15.夜逃げ
町内に「木村布団店」があった。この家には中学に通っている二人の娘がいた。華やかな感じの娘たちで、彼女たちの陽気な声が私には小鳥の囀りのように快かった。 おじさんやおばさんも気さくだった。日当たりの良い店先にはいつも客で賑わっていた。
私を羨ましがらせたのは、二人の娘達が父親と仲良く冗談を言ったりふざけあったりしていたことだ。それはテレビのホームドラマを見るような微笑ましいシーンだった。 私の家では父の権力が大きく、冗談が言える雰囲気ではなかった。父は朝六時前には家を出て行く。帰るのは九時過ぎだった。たまに早く帰ってきても、夕食を食べるとスクーターに乗って田舎の祖父を見舞いに行く。
転職して日が近い上に、体の不自由な祖父のことも気がかりで、父も大変だったのだろう。たまに私を釣りや雀捕りに連れ出すくらいが精一杯の家庭サービスだったのかもしれない。その頃の父は家にいても苦虫を噛みつぶしたようなとりつく島もない不機嫌な表情をしていた。
そんなわけで、私はその美しい娘たちのいる店の前を通る度に、 (世の中にはこんなに絵にかいたように幸せで朗らかな家庭があるのだ) と、子供心に思ったものだ。
しかし、ある日を境に事態が一変した。「木村布団店」が店を開けなくなった。噂によると、おじさんのギャンブルの借金のために店が倒産し、一家は夜逃げをしたのだという。信じられないことだった。
しばらくして、夜遅くに私の家の玄関口に「木村布団店」のおばさんが姿を現し、応対に出た母に、泣き声で引っ越しの挨拶をした。母も一緒に涙を流して、別れを惜しんでいる。見るとそのおばさんの後ろに二人の娘がしょんぼりと立っていた。 私は胸を突かれた。噂は本当だったのだ。
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