橋本裕の日記
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昨日書店へ行って、久しぶりに本を買った。買ったのは「文芸春秋10月号」である。特集として、「父が子に教える昭和史25のなぜ?」が気に入ったからだ。私は「文芸春秋」を愛読しているが、買ってまで読もうと思ったことはない。たいていは書店の立ち読みか図書館の閲覧ですましている。この雑誌を買ったのは、十年ぶりくらいだろうか。
25の疑問の内容は、「昭和恐慌はなぜ起きた?」「満州事変は中国への侵略?」「2・26青年将校はなぜ決起した」「戦前は暗黒時代だった?」「日本は朝鮮で悪いことをした?」「軍部独裁を望んだのは誰?」と続き、「東条英機は悪人だった?」「昭和天皇に戦争責任はあるか?」で終わっている。
私の考え方はどちらかというと、左翼的かもしれないが、読むのは右翼的なものが多い。左翼的なものは読んでいてあまり面白くない。なぜなら、それはあまりにもステレオタイプで、退屈だからだ。あたりまえのことが、もっともらしく書かれているだけで、意外性や、ハラハラドキドキがない。これに比べて、文芸春秋の記事などは、一度に一ダースも二ダースも疑問点や反論が思い浮かぶので、頭がすこぶる活性化する。つまり、面白いのである。
ガリレオは大学で教えていた頃、大変学生に人気があった。人気の秘密はその独特な講義のスタイルにあったらしい。たとえば地動説を主張する場合、まず天動説の正しいことを徹底的に証明する。そして誰もがその説が真理であることを疑わなくなったとき、今度はその反対の説を滔々と述べ始める。つまりここにもう一つ、正しい物の眺め方があることを提示してみせるわけだ。背負い投げを食らわされた学生は驚き、ここにはじめて両説を対照して、そのいづれがすぐれているかを納得するわけだ。
この論法はソクラテスがよく用いた方法だが、ガリレオはこうした自由で批判的な知性のあり方を復活させたわけだ。ソクラテスにせよ、ガリレオにせよ、論敵を相手にして、その論敵よりもさらに深くその説を理解していて、しかもこれを自在に言語で表現することができた。自由にどのような立場にも立ち、雄弁にこれを弁論できると言うことは、彼らが第一級の知性人であったことの証だろう。
文芸春秋の主張にはこうした第一級の知性の自在性や輝きが感じられない。そこに感じられるのは視野の狭い、何かに囚われた「情念」のようなものである。しかし、左翼的なうすっぺらな正論よりも、こちらのほうが遙かに人間的であり、真実みを感じさせる。この情念を理解した上で、これに対抗できるもっと建設的で明るい「浄念」を構築したいものだ。自由な知性の光りによって、「情念」を「浄念」へと美しく昇華させたいものだ。
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