橋本裕の日記
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16.十界互具
さて、大乗仏教についておおまかなことがわかったところで、再び日蓮に戻ろう。日蓮は法華経の「衆生をして仏知見を開かしめん」という句を引いて、開くというのは本来人界に仏界が具わっているから可能なことであり、「末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足するなり」(観心本尊抄)と述べている。
実は仏界は悲惨な地獄界に呻吟している人にも具わっている。修羅となって争う心の盛んな人にもそなわっている。つまりあらゆる境涯に仏界が具わっているわけで、これがすなわち「一切衆生悉有仏性」ということであると日蓮は説く。
あるいはまた逆に、実は仏界や菩薩界にも地獄界や修羅界は具わっている。ここのところが、仏教の思想のとても深いところである。十界がすべて、それぞれの他の境涯を具えているわけで、これを「十界互具」という。
私たちが人と会って、ああ今この人はこんなことを考えているのだな、こんな境涯に身をおいているのだなとわかるのは、そうした心なり境涯が私たちの現在の境涯の中にも潜在しているからだ。つまり「十界互具」ということがあって、私たちは初めて相手の心が生き生きと読み取れるのである。
境涯の高い人と会って話を聞いたり、またすぐれた芸術や文章に出会って感動するのは、自分の心に潜んでいる高い境涯が目覚めるからである。つまり高い境涯にある相手が、明鏡のようにして自分の心の中に潜んでいる貴重な宝を映し出してくれるわけだ。たとえば私たちが法華経を読んで心を動かされるのは、何も法華経がすばらしいからばかりではない。むしろ法華経が鏡となって、私たちのなかに隠れていた尊いものを映し出してくれるからである。まさに「仏知見を開かしめ」てくれるわけだ。
こうしてみると、私たちが接しているすべての存在が、実は私たちの自分の心を映し出す鏡のようなものだということに気づくだろう。「十界互具」ということを、もうすこし突き詰めていくと、「三界はただ心の所現である」という思想にまでたどり着くのだが、今はまだこの思想を述べるのは時期尚早なので、このくらいで筆を収めておこう。
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