橋本裕の日記
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2003年09月03日(水) 動物に自由はあるか

 動物を見ていると、なんとなく自由気ままに生きているような気がすることがある。たとえば牧場で悠然と草を食んでいる牛たちはどうだろう。eichanの最近の短歌にそんな情景を詠んだのがあった。

  乳牛はただ草を食むひたすらに草を食むのが生きることらし

 何か雄大な息遣いが感じられて、この歌、とても気に入ったので、さっそく引用させていただいたが、しかしよく考えてみると、牛がただひたすら草を食むのは、牛にはそれ以外の生きる選択肢がないからだろう。

 動物はただ本能のまま、何も考えないで生きている。決して自由気ままに生きているわけではない。考えてみれば、本能に従って生きている動物には、実際のところ思想の自由も、行動の自由もないのである。

 それでは、なぜ人間に彼らが自由に生きているように見えるのだろう。それは彼らは自由もないが、あれこれ強制されることもそれほどないからだろう。人間のように学校や会社に行かなくてもよいし、勉強もしなくてよい。受験地獄やリストラの心配もないだろう。社会的な規制や義務に縛られて、あくせくしながら生きている人間の目には、あけてもくれてもただ草ばかり食べている牛はのんきでうらやましい。

 多くの動物が人間のようにあくせくしているようには見えないとしたら、そのおもな理由は、彼らにむしろ自由がなく、限られた単調な行動しかできないからである。そのことが、かえって彼らに悠々自適な表情を与えるのである。彼らは本能に拘束され、思想や行動の自由を持たないが、そのことで何ら不満を抱いているわけではない。むしろ彼らは自らの境涯に自足している。そしてこの自足感があるので、彼らはいかにも悠然として生きているように見える。

 自由とはなにも社会的な規制や束縛がない状態をいうだけではない。人間はまた自らの心に巣くうさまざまな欲望や観念によっても支配される。金銭欲や名誉欲、権力欲などに捉えられ、その奴隷となってあくせく生きている人間を見た後、いかにもそうしたものから自由な様子の動物たちをみると、そこにあるすがすがしさを覚えるものだ。

 動物には自由はない。しかし自由がないということは、彼らにとっては不自由がないということでもある。人間もまた、自由を知らなければ、不自由を意識しないだろう。アダムとイブは知恵の木の実を食べて、自分たちがいかに不自由であるかに目覚めた。そして、そこにさまざまな夢や希望とともに、不満や挫折や軋轢が生じてくる。自由に目覚めるということは、すなわち不自由に目覚めるということでもある。自分がいかに不自由であるかに目覚めた人間は、もう以前ほど悠々と生きることはむつかしい。


橋本裕 |MAILHomePage

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