橋本裕の日記
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明治7年11月、イギリスの仲介により、清国との合意がなって、日本軍は台湾から撤兵した。ただ一人その交渉にあたった大久保利通はひとまず肩の荷を降ろしたが、しかし、三元勲のうち西郷と木戸を失った明治政府は弱体化し、不平士族の不満は高まるばかりで、前途多難であった。
そこで大久保は在野にある木戸孝允を再び政府に呼び戻すしかないと考え、この周旋を同じ長州出身の伊藤博文にゆだねた。伊藤はこれを引き受けるにあたって、条件を出した。木戸の主張は大久保の独裁を排せよという漸進的民権論である。木戸のこの主張を大幅に受け入れて、この際、思い切って三権分立に基づく民主政府を作ろうというものだった。
「立法機関として、元老院と地方官会議を置く。司法機関として、大審院、上等裁判所、地方裁判所を置く」
伊藤はこの案を大久保に示した。大久保はやむなくこれを呑んだが、伊藤の周旋家として才能があるところは、このことを伏せたまま、木戸に向かいあったことだ。木戸はこのとき、「大久保はとても賛成すまい。しかしもし大久保がこの案を呑めば、もはや岩倉・大久保の専制が終わる。私ももう一度東京へ出てもよい」と語ったという。伊藤は「大久保さんには何とかあたって砕けてみましょう」と空とぼけた。司馬遼太郎さんの「翔ぶが如く」から引いてみよう。
<伊藤は胸中に共和主義に近い思想を秘めていたとしても、彼の本質はやはり政略家であり、民権家たちが命がけでかち取ろうとしている民権制でさえ、機略の道具に使った。このあたりが、だました伊藤とだまされた木戸のあいだの違いであったであろう。伊藤の本質が調整家であるのに対し、木戸の本質はきまじめな革命家にあるとしなければならない>
<大久保のこの時期の政治思想はあくまでもビスマルク的な天才的宰相による専制にあり、三権分立は時期尚早といいたかったに違いない。しかし木戸をうしないたくなかった。木戸を失えば明治政府そのものをうしなうという危機感が大久保の思考法の中にあった>
<明治8年正月に大久保が木戸孝允を神戸で待ちうけ、その後いわゆる大阪会議をひらき、2月のはじめ木戸が内閣に入ることを承知し、同月24日東上してからわずか2月後の4月25日に、この制度が発足した。うそのような迅速さである>
<うそのような、といういかがわしさは、政略によって出来たからであろう。欧米のように下からの盛りあがりで成立したのではなく、木戸の入閣条件として、いわば木戸の輿入れ道具としてこの制度が出来た。大久保が太政官権力を再建するために木戸を必要とし、そのためにこの道具を容認した。木戸もまた、岩倉・大久保の専制支配を制御するための制御装置としてこの道具を持ち込んだ>
しかし大久保・木戸の巨頭体制も長くは続かなかった。大久保や伊藤が頼みにした木戸がやがて病に倒れたからだ。こうした明治政府の弱体化を見透かすように、あちこちで不平士族の挙兵が続いた。そしてついに明治10年2月15日、西郷隆盛が鹿児島で挙兵した。西郷に従う兵は13000人にも上り、ここに明治政府は最大の危機に見舞われた。こうしたなかで木戸孝允は5月26日に45歳の生涯を終えた。最後の言葉は、「西郷、もういいかげんでやめたらどうだ」だったと言う。
同年9月24日に西郷軍は最後の戦いに敗れ、郷土の城山で西郷は切腹して51歳の生涯を終えた。これによって7カ月に及ぶ西南の役がようやく終結した。しかし、その翌明治11年5月14日の白昼、大久保が西郷心酔者の兇刃に倒れ、49歳の生涯を終えた。こうして、明治政府は三元勲を次々にうしなった。伊藤博文と山県有朋が、巨頭亡き後のあたらしい国家建設の重圧を、いやがうえにもその双肩に担わなければならなくなった。
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