橋本裕の日記
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明治の元勲の大御所といえば、西郷隆盛、大久保利通、木戸光允の三元勲だが、まず明治6年10月には征韓論に敗れた西郷隆盛が去り、ついで翌7年3月には木戸光允が去っている。木戸が参議をやめたのは大久保の台湾出兵に反対してのことだった。
征韓論に反対した内治主義者の大久保が、なぜ台湾出兵に踏み切ったのか、その背後には西郷隆盛を中心とする不平士族の隠然たる圧力があったからだ。朝鮮の代わりに台湾を選んだのだが、これには清国や、清国に利権を持つイギリスが黙っていなかった。結局、台湾に出兵した3000の兵を引き上げなければならなかった。
大久保はこのため、清国に渡って交渉した。一年前、西郷が朝鮮に渡って交渉しようとしたのを阻止した大久保が、まるで西郷のお株を奪うような行動に出たわけで、これには腹心の伊藤博文でさえ驚いた。伊藤は台湾派兵に反対だったし、まして大久保が単身清国に乗り込むことにも反対だった。
陸軍大臣だった山県有朋も台湾派兵に強硬に反対していた。その理由は、いま国内はなお旧藩のごとく固結し、しかもそれぞれ不平を抱いている。いざ戦争となっても、彼らが動くかどうか。陸軍としては、とても戦争などできない」ということで、これを大久保の前で堂々と主張した。このあたりの経緯を、司馬遼太郎の「翔ぶが如く(五)」から拾っておこう。
<陸軍卿山県有朋は、気質的に大久保利通に似たところがある。・・・大久保は優秀な官僚組織を構成すれば国政はそれで足りるという思想を持ち、このためすべてが機密主義で、国政の枢要事項を閣外に洩らすことをしない。つまり木戸のような人民という観念が大久保には希薄で、政策決定の場に人民の意志を反映したりすることは無用だと考えていた。この大久保のいわゆる「有司専制」の思想は、のちに山県が継承した。大久保のように、平素、私心を吹き払って一塵もとどめないというような心境は終生持てなかったが、しかし大久保がその死後、弟子を持ちえたとすれば、この山県がそれであったろう>
山県は大久保に対して、「全国の不平士族が、はたして兵となって清国にゆくかどうか、兵として従軍せよという政府の命令に服従するとは思えない」と、執拗に述べた。「山口県一県の人は、たいてい私の指示に従いましょう。しかし他県はそうは参りませぬ」と食い下がる山県に、大久保はわずかに微笑して、「皇帝陛下というものがあるじゃないか」と言ったらしい。再び「翔ぶが如く」から引用しよう。
<天皇といわず、外国風に皇帝と言った。のちに山県もそうだが、大久保も、国内統制に、何かといえばこの皇帝というものを持ち出した。 「士族たちの統御はむずかしくない。国家が危機にいたれば、皇帝陛下の宸断を仰ぐのみ」 大久保の考えている天皇制の原型はこのあたりの機微にあるのだろう。大久保的な天皇制の原型を、のちに制度化してゆくのが山県であることを思えば、この対話は劇的であるといっていい。このとき、山県はこの大久保の一言で沈黙した>
西郷隆盛も大久保利通にももとより「無私」の境涯に身をおいている。それは立派なことだが、彼らには吉田松陰や木戸光允(桂小五郎)が持っていた「人民という観点」が希薄だった。松陰の弟子であることを自称しながら、山県有朋にもこの観点はまったくなかったのではないかと思っている。そしてこの二人の対話をじっと聞いていた伊藤博文にも、いささか希薄だったのだろう。そしてその分、大久保的な天皇制へと傾斜して聞く危険な要素があった。
ちなみに同じ薩摩藩の上士の身分に生まれた西郷隆盛には「人民を尊重する」ということも、「天皇の権威に頼る」という傾向もほとんどなかった。西郷には他の権威を必要としない強さがあった。あえて言えば、彼自身が権威であり、神だったのだろう。明治6年に西郷は参議を辞職して鹿児島に帰るが、そのときも天皇には一言の挨拶もなかった。このとき薩摩出身の近衛師団の将校も多く西郷に従ったが、だれも天皇にいとまごいをしなかった。彼らは「天皇を捨てて、西郷に従い」郷里に帰って行った。
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