橋本裕の日記
DiaryINDEX|past|will
「岩倉獄」にいた金子重輔が1855年1月11日に獄死した。獄卒からこのことを知らされた松陰は、獄卒の顔をみかえしたまま、はらはらと大粒の涙を落とした。そして蹲り、髪をかきむしった。「私のせいだ」と彼は自分の身体を拳でたたきながらうめいた。
牢内の人々は、「君のせいではない。金子君はもともと体が弱かったのだ」と口々に言ったが、「自分のせいだ」と責め続ける松陰を慰めることが出来なかった。松陰は金子のことを忘れていたのではない。金子のために拠金を募り、役人にも彼の待遇の改善を依頼していた。そんな矢先の死だった。松陰はひとり獄房で髪を掻きむしり、「金子君、許してくれ、許してくれ」と、自分の身体を拳で打ち続けた。
松陰のうめき声が野山塾を満たした。見るに見かねて、俳句会の指導者の吉村と河野が最古参の大深のところへ相談を持ちかけた。75歳の大深は「家庭の持て余し者」としてすでに50年も入獄していた。いまは野山塾の牢名主として一目置かれていた。
「きみたちは俳句の名人だ。どうだ、死んだ金子くんを追悼する句会を開くということを、吉田くんに相談してみたら」 大深に言われて、ふたりはこれは名案だと思った。もともと松陰の発案で始まった俳句会である。「金子の追悼のため」と持ちかければ、松陰がこれを断ることはないだろう。さっそく二人は松陰の牢を訪れた。
二人が訪れても、松陰は壁に向かったままだった。しかし、追悼の俳句会と聞いて、松陰はこちらに向き直り、這うようにして牢格子のところまで来た。やつれた顔で暗い眼をしていた。ただその眼に、かすかな光りが甦っていた。松陰は牢格子の間から手を出して、「吉村さん、河野さん、ありがとうございます」と手を握りながら、また涙をとめどなく流した。
この俳句会には、はじめてあの狷介孤高な富永弥兵衛も参加した。11人の囚人の他、4人の牢役人も参加した。金子を追悼するということもあったが、松陰を励まそうという周囲の気持も強かった。松陰にはそうした人々の情けがありがたかった。このとき読まれた俳句をいくつか紹介しよう。
惜しむぞよ雪に折れにし梅が香を 花廼屋(吉村) 帰りぬる魂のあなたや夕がすみ 花逸(河野) 陽炎の行方やいづこ草の原 蘇芳(富永) 若木さえ枝折れにけり春の雪 久子 ちるとても香は留めたり園の梅 松陰
松陰は句会が終わると、末座にさがって、全員に感謝の言葉をかけた。そこへ牢の責任者の福川犀之助がやってきて、「今夜から、灯火の使用を許可する」という。これはあきらかに、「松陰に自由に書物を読ませたい」という思いやりだった。囚人達の間から歓声が湧き起こった。
|