橋本裕の日記
DiaryINDEX|past|will
牢獄の責任者の福川犀之助から、「吉田先生」と呼ばれて、吉田松陰は少しとまどいながらも、「はい」と答えた。見ると、福川はとなりにひとりの武士を連れている。福川の弟の高橋藤之進だった。福川は松陰が獄内で「孟子」を読んでいるのを知って、獄内で孟子の勉強会を開くことをを思いついたのだった。
「ひとつ牢内で孟子についてご講義をおねがいできませんでしょうか。この弟が、しきりにそれを望んでいます。私も拝聴させていただきます」
松陰は「私は未熟者ですが、話の引き出し役くらいなら引き受けましょう」とこころよく応じた。「孟子」といえば「論語」「大学」「中庸」と並ぶ「四書」のひとつである。しかし、松陰はなかでも「孟子」に強く惹かれていた。それは彼の師佐久間象山の影響もあった。
密航が発覚したとき、象山もまたこれをそそのかしたとして、逮捕された。象山は西洋の進んだ兵法を弟子の松陰に学ばせたいと思い、密航を励ます文を書いて彼に餞として持たせていた。それが幕府の押収されていた。幸い幕府にも象山の理解者がいたので、彼はのちに放免されるが、しばらくの間、松陰たちとおなじ獄につながれた。獄の中で、象山は大声で「孟子」を朗読した。
「天のまさに大任をこの人にくださんとするや、必ず先ずその心志を苦しめ、その筋骨を労せしめ、その体膚を飢えしめ、その身を空乏にし、行いその為すところを払乱せしめる」(「孟子」告子上)
この声が同じ獄にいる松陰に届いてきた。松陰は象山がこうして自分を励ましてくれているのだ思った。そして松陰も又、この章句を朗読した。この習慣はのちに勤皇の志士とよばれた彼の門下生に受け継がれた。彼らはこの章句を合い言葉にして自分たちを奮い立たせ、困難な事業に捨て身で向かっていったのだった。
「孟子」は「革命の書」だといわれる。政治は支配者の贅沢のためではなく、人民の幸せのために行われなければならないという主張が強く出ているからだ。だから、為政者や支配階級に属する人々にとっては都合の悪い書である。「人民」という言葉も、実は「孟子」の中で始めて使われた言葉である。
「民を貴しとなす。社稷(しゃしょく)これに次ぎ、君を軽しとなす」 「諸侯の宝は三。土地・人民・政事なり」 「天下を得るに道あり。その民を得れば、ここに天下を得る」 「至誠にして動かざる者は、未だこれあらざるなり」
「社稷」とは神社に祭られる神で、孟子は君主は神よりも軽く、その神も民よりは軽いと説いた。これは「民本主義」と呼ばれ、「性善説」とともに「孟子」を際立たせる特徴となっている。松陰はこれを萩の獄中で講義し、引き続き松下村塾でも教えた。そしてこの講義から、「講孟剳記」(こうもさっき)という書が生まれている。
松陰はその冒頭を「道はすなわち高し、美し、約なり。近なり」と書き始めた。これは言うまでもなく、孟子の「道は高し、美し」「道は近きにあり。しかるにこれを遠きに求む」という言葉からとられたものだった。「孟子」については、別にもう少し詳しく書くことにしたい。
|