橋本裕の日記
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野山獄の俳句の会に、富永弥兵衛は顔を出さなかった。松陰が富永が牢を訪れると、あいかわらず書物を読んでいる。傍らには硯と墨があり、書きかけの紙が置いてあった。書物は浅見絅斎という学者の書いた「靖献遺言(せいけんいげん)」という本で、富永はそれを書写していたらしい。
その本を松陰はすでに読んでいた。中国や日本の義士の事績にふれ、「天皇に忠義を尽くすべきだ」という「尊皇論」が述べられていた。松陰にとってこれは嬉しい発見だった。さっそく、「ぜひその本について、私たちに講義をしていただけませんか」と水を向けてみた。
しかし富永は「馬鹿を相手にしてもしかたがない」と取り合わない。そこでさらに松陰は「それでは書道をおしえていただけませんか」とさらに押してみたが、富永は馬鹿にしたような薄笑いを浮かべているだけだった。松陰もさすがに「それでは、また」と引き下がるしかない。ただ松陰の顔にはこのときも怒りは浮かんでいなかった。ただ残念だという思いだけが読みとれた。
富永は「有隣」という号を持っていた。これは「論語」にある「徳は孤ならず、必ず隣あり」という言葉からとってものだ。しかし、富永ほどこの「有隣」という号にふさわしくない人物もいない。学問を鼻にかけ、孤高のポーズを崩さない。自分一人が偉いと思っている。だから、みんなの鼻つまみ者になってしまった。「無隣」とでも改めたほうがいいのではないか。だれもがそう思っていた。富永自身、じつは自分のそうした性格を持て余していた。
富永は明倫館の秀才で、藩主にも一目置かれて、小姓を務めたこともあった。結局その性格と言動が災いして周囲から疎んじられ、牢に入れられたものの、自分の学問には自信を持っていた。松陰のような若造に負けるはずはないと思っている。しかしそうした思いが、松陰に対する嫉妬であり、敵愾心でしかないことを富永はうすうす感じていた。
実のところ、松陰は富永に輪をかけた秀才だった。わずか6歳で長州藩の兵学指南になり、11歳の時には藩主毛利敬親の前で講義を行っている。この講義に藩主はいたく感動し、以後、松陰に眼をかけてくれた。松陰が起こした問題は密航事件にとどまらなかったが、藩主はそのたびに寛大な眼で松陰を見守っていた。それは藩主が松陰の才能とともにその人物を愛していたからだ。
松陰と富永はおなじ学者だと言っても、その人物はまるで違っている。松陰は徹底的に明るく、そして人を信じる。人間はその本質において善であると考えているから、富永のような人物に対しても、いささかも悪意をもつことがない。周囲の環境のせいで心ならずも悪人ぶっているが、根は善良ないい人だと思っている。
このように人を徹底的に信じることができるのも、松陰の偉大な才能だというほかはない。松陰は誰からも愛された。その謎解きはむつかしいことではない。それは彼が隣人を信じ、徹底的に愛したからだ。「徳は孤ならず」ということを、松陰はその短い生涯で実践して見せたのだった。
松陰が国禁を犯してペリーの軍艦に乗り込んで行ったのは、いかにも無謀なことのようである。富永はこのことを聞いて、「何という世間知らずの馬鹿者だろう」と思った。しかし、松陰にこうした向こう見ずな行動をとらせたのも、彼の人の善意を信じる純粋な心である。たとえ言葉が分からない異人であっても、至誠の心は必ず相手の胸襟を開き、相手を動かさずにはおかない。松陰はいつもそういう風に考える。あえていえば、これが松陰の「処世術」だった。
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