橋本裕の日記
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2003年08月03日(日) 野山獄の人々

 吉田松陰は、1854年(嘉永7年)に密航に失敗し、萩藩の「野山獄」に入れられた。当時萩藩にはもう一つ「岩倉獄」という牢があって、ともに密航をはかって捉えられた金子重輔はこちらに入れられた。松陰にとって、これはつらい別れだった。金子を密航に誘ったのは松陰である。松陰は自分が金子の人生を狂わせたことに深い罪悪感を抱いた。彼はさっそく、二つの獄のいわれについて調査して文章を残している。

 調べてみると、二つの牢は野山と岩倉という二人の藩士の屋敷あとだった。両者が喧嘩をして家を取りつぶされ、そのあとを牢獄にしたらしい。そして、二つの牢では待遇が違っていた。武士の身分を持つ者は「野山獄」にはいれるが、そうでないものは「岩倉獄」に入れられた。

 金子は足軽に属する軽輩なので「岩倉獄」に入れられた。こちらのほうは牢も粗末で、冬は木枯らしを遮る塀もなく、格子から寒風がふきこんでくる。入牢者はこの寒さで次々に死んだ。金子も病を得て、獄中で死んでいる。松陰はこのことを知ったとき、食を断ち、死を思い詰めている。しかしこれはもう少し後のことである。

 松陰が入った「野山獄」は向かい合った二つの棟にそれぞれ6つの独房が並んでいて、12人の収容が可能だった。松陰が入ったとき、すでに11人の囚人がいたので、彼が入って満杯になった。12人のなかで25歳の松陰は最年少だった。最高齢は入牢して49年になるという74歳の老人だった。松陰はこの老人の元にまず挨拶に行った。老人は松陰を気に入り、彼の話を聞くのをたのしみにするようになった。

 松陰はすでに九州から東北まで全国を行脚している。おまけにペリーの軍艦まで訪れているのだから、その体験談が面白くない筈はない。49年間も牢に入っている老人のみならず、こうした生きの良い若者の体験談を聞くことは、他の囚人にとっても得難い楽しみだった。松陰は役人の許可を貰って、これらの畳二畳の狭い囚人の独房を訪れ、話をしてまわった。そうしながら、松陰は入牢者の身の上話にも耳を傾けた。

 松陰は通り一遍に人の話を聞き流したりしない。彼らは「悪いのは世の中で、おれは正しい。そのおれを牢にぶちこむ世の中は狂っている」という気持を一様に持っていた。松陰にはそうした彼らの暗い心情がわかった。ひがんで、ひねくれている人を見ても、松陰はその背後にある心情を察し、彼らを決して批判したりはしなかった。そこには他者にたいする愛情がいつもあふれていた。そうした彼の態度が、囚人の内面を少しずつ明るいものに変えていった。

 実際のところ、野山塾の入牢者は罪を犯した者だけではなかった。家族に持て余しものが出たときには、家族が藩の許可を受けてここに預けることができた。そして一旦家族から隔離されてここに収容されると、ほとんどはその残りの生涯をこの牢で終えることになっていた。現にそうした人を、松陰は何人も発見した。寺語屋の師匠だった49歳の吉村善作や44歳の河野数馬という武士がそうだったし、藩校明倫館の教授だった富永弥兵衛という37歳の若い学者もそうだった。

 富永弥兵衛は鋭い頭脳を持つ秀才だったが、性格が頑なで、つねに正論を押し立て、妥協することが嫌いだった。プライドが高く、「あいつは馬鹿だ」と重役をも鋭く批判し、攻撃したので職を罷免され、32歳の時にこの牢に移された。吉村や河野は松陰を受け容れ、たちまち松陰のフアンになったが、富永だけは松陰に胸襟を開こうとしなかった。

 松陰は吉村と河野が俳句を作っていると知って、彼らを師匠にして獄内に「俳句の会」を作ろうと思い立った。獄中で退屈をしていた人たちにとってこれは慰めになると考えたからだ。吉村や河野のすぐに賛成してくれたが、富永はいつものように松陰に背をむけたまま、「この獄にいるやつらはみんな馬鹿だ。なにをいっても無駄だ。だからおれはつきあわない」と持論を繰り返すだけだった。そして「俳句など、女子供が慰むものだ」と読んでいた書物の方に戻った。


橋本裕 |MAILHomePage

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