橋本裕の日記
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この夏、萩に旅行し、吉田松陰の「松下村塾」を訪れてみたいと思っている。青春切符を使った2泊3日の旅の途中なので、そう長くは滞在できない。2時間半ほどしかないが、さいわい東萩駅前にレンタサイクルがあるらしいので、これで吉田松陰のゆかりの場所を廻ってみたいと思っている。
吉田松陰は、1854年(嘉永7年)に密航に失敗し、萩藩の「野山獄」に投獄されたが、1857年(安政4年)年に仮処分の形で出獄して、叔父玉木文之進の松下村塾を引き継いだ。安政の大獄により29歳で刑死するまでの2年半、彼はここで若い門下たちに新しい学問の道を説いた。
そしてわずか2年あまりの松陰の教育活動が原動力となって、高杉晋作、久坂玄瑞、桂小五郎、伊藤博文、前原一誠、山県有朋など、幕府を倒し近代日本を建設する逸材を綺羅星のように輩出した。松蔭は戦時中、忠君愛国の鑑として持ち上げられ、その反動で戦後は批判の対象とされたが、その後、卓越した教育者として再び評価されて今日に至っている。松蔭を教育者の鑑として尊敬している私にとって、萩の「松下村塾」を訪れることは長年の夢だ。
吉田松陰は決して自分のことを師と言わなかった。ともに学ぶ「学友」だと言っていた。自分のことを「僕」と呼び、相手を「君」と呼んだ。自分のことを「僕」と呼んだのは「学問のしもべ」という意味だろう。相手を「君」と呼んだのは、「他人はすべて師だ。どんな人間にもかならず学べるところがある」というのが松蔭の姿勢だったからだ。門人達もお互いに「僕」「君」と呼ぶようになり、これが長州から後に全国に広がった。
松下村塾は朝6時から開いていたという。松蔭は講義をしたり、討論をしたり、その合間に畑仕事をしたりした。昼間仕事を持っている門人もあり、講義は夜も続けられた。議論が白熱すると徹夜で語り合うこともあったという。そのため寝不足から、昼間講義をしながら居眠りをすることもあったらしい。門人たちには対等な立場で自由な討論を許し、彼らの中に溶け込んでいたので、門外漢にはどこに松蔭がいるのかわからないときもあったという。
松蔭は戦前の宣伝が偏っていたため精神主義者だと思われているが、実のところ彼が重んじていたのは「地理」「歴史」「算術」などの実学だった。とくに「算術」を重んじ、「いまのわれわれにとって算術ほど重要なものはない。士農工商の区別なく学ぶべきものだ。なぜなら世間のことはそろばん珠をはずれたものはまったくないからだ」と言っていた。松蔭は「社会に役立たないものは学問ではない」という実学尊重の立場だった。
たとえば松蔭は「飛耳長目録(ひじちょうもくろく)」という分厚いメモ帳を手元に置き、そこの全国で起こっている事件の最新の情報を書き込んで門下生に閲覧を許していた。彼は見聞をただそこに書き留めただけではなく、「どうしてこんなことが起こるのか。そしてどうしたらこんなことが起こらずにすむのか」ということをいつも問題にし、門下生達と議論したという。
彼が国禁をおかしてまでアメリカに渡ろうとしたのは24歳のときだった。彼がそのときペリーにあてた手紙には、その動機について、「世界を周遊し、自分の目で世界を見てみたい」ためだと書かれている。そして、「貴国の大臣や将官は仁愛の心の持ち主」であり、「私たちは言葉も粗暴ですが人間は誠実です。その意を憐れみ、この申し出を拒絶しないことを是非お願いします」と結んでいる。
こうしたことからも、松蔭が決して単純な「尊皇攘夷論者」でも「勤皇の志士」でもなかったことがわかる。松蔭の偉かったところは、彼があらゆる問題をつねに「国」や「世界」という立場から考えていたことだ。彼自身の頭の中には「藩」などというこせこせした概念はすでになかった。
藩には明倫館という立派な学校があったが、下級の武士や農民の子供たちはそんな立派な所へは行けない。例えば伊藤博文もそうだった。しかし上級の武士の子弟の中にも、松蔭を慕って松下村塾にやってくる者がいた。その代表は高杉晋作だろう。彼は明倫館の優等生だったが、周囲が反対するのも聞かずに、夜になると高下駄を響かせてやってきたという。
明倫館の教育はただ単に字句の誤りや使い方の正しさを押しつけているだけの、いわゆる「詰め込み教育」に過ぎなかった。晋作にいわせればそれは学問でも何でもなかった。明倫館の教育はただのたしなみであり、せいぜい自分の立身出世のたしにしかならないが、松下村塾の教育は、「日本のために、世界のために役に立つ人間になる」こというすばらしい理念に裏打ちされていた。こうした松蔭の気宇壮大な理念が、当時の若者の精神の眼を世界に開かせ、彼らの向学心に火をつけのだった。
(参考文献) 「吉田松陰」 童門冬二著 (学陽書房 人物文庫上下)
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