橋本裕の日記
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2003年07月31日(木) 日蓮と一念三千論

13.八聖道

 釈尊は人生はそのままでは苦しみでしかないが、これを克服するには修行して心身を整えなければならないと説いた。しかしその修行はただ肉体や精神を苦しめるだけではいけない。釈尊は安楽とともに苦行を斥け、そのいずれにも偏らない「中庸」こそが正しい修行であると考えた。そしてこれを八つの正しい道として人々に示した。
 
 先ずは真理を正しく認識する必要がある。そのために必要なのは、「正見」と「正思」である。すなわち物事を正しく見て、正しく考えることだ。正しく見るというのは、先入観を捨ててありのままに観察することである。正しく考えるというのは、物事を筋道をたてて合理的に考えることである。たとえ事実をありのままに捉えても、そのあとの推論が間違っていては間違った結論に導かれる。だから正しく観察し、正しく思考しなければならない。

 次に「正語」「正業」「正命」「正精進」という四つの実践が続く。これは正しい言葉を口にし、正しい行いをし、正しい生活をすること。そしてそのためにたゆまぬ努力をするこである。このように釈尊は正しく観察し、正しく思考するだけではだめで、これに身体的な実践がともなわなければならないと考えた。

 そうすると私たちは、「正定」「正念」という最終的な修行段階に至る。「正念」とは雑念から自由になった正しい精神状態であり、「正定」とはこうした精神状態が身体と一体化した平和な心身統一の状態を言う。このような八つの道を実践すれば、私たちはだれでも苦しみの世界を脱してさとりの世界に入ることができる。釈尊の弟子達はこれを「八聖道」として尊んだ。

 私たちの住む迷いの世界は「怒り(地獄)」「貪り(餓鬼)」「愚痴(畜生)」「争い(修羅)」という毒に満ちている。「平静(人間)」「歓喜(天上界)」という心の状態もあるが、それは束の間のことである。この迷いを出るためには、この聖なる八っの道を行じればよい。こうした釈尊の「四諦八聖道」の教えに耳を傾ける人を、「声聞」と呼ぶ。

 声聞は「四諦」の理論を学び、「八聖道」の実践を行じることによって、いつか「縁起の法」を体得することができる。こうして「縁起の法」に精通し、悟りを開いた人を「縁覚」と呼ぶ。釈尊が当初目差したのは、このような人間救済のありかただった。しかし、仏教はこのあとさらに発展する。それが「六波羅蜜」を行じる「菩薩」と「仏」への道である。次回は「六波羅蜜」について書いてみよう。


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