橋本裕の日記
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今野信雄さんの「江戸を楽しむ」(朝日文庫)を読んでいて、あらためて日本の寺子屋教育のすばらしさに思いを致した。寺子屋については以前にも日記に書いているが、新たな発見もあったので、もう一度触れておこう。
戦国時代に来日したフランシスコ・ザビエルは「日本はヨーロッパ以上に教育が進んでいる」という手紙を本国に送っている。江戸時代に来日した多くの外国人も「日本の子育てこそ世界の理想である」と激賞している。たとえば長崎のオランダ商会に勤務していたフィッセルは「日本風俗備考」の中で、「私は親子の愛情の交流こそが、日本人の特質である」と書いた。ペリー提督も日本に上陸して、日本の幼児教育のすばらしさに驚いたという。
とくに外国人が絶賛したのは「寺子屋教育」だった。幕末のころにはこれが全国に普及し、1万5千から2万ほどもあったらしい。江戸に至っては一町に2,3軒はあったという。大方の子供は男女とも7,8歳になると近所の寺子屋に通い始める。授業は午前7時半ころから午後2時くらいまでだったが、とくに時間に制限はないので、もっと早く来たり遅く来たりする子もいたらしい。卒業するのは11,2歳だった。こうした寺子屋教育のおかげで、日本人の識字率は75パーセントを超えていたというから、イギリスでさえ20パーセントだった当時の世界の常識からすれば奇跡と言うしかない。
寺子屋では「よみ、かき、そろばん」の他、教訓、社会、地理、歴史、産業など、いろいろな教科書を使って、それぞれの子供にあった教育がなされていた。教科書の種類は7千種ほどあり、その中の1千種は女子専用の教科書だった。寺子屋は武士の子供も町人や農民の子供もおなじく席を並べたが、男女は別学で、女の子を教えるのは女のお師匠さんだったという。
寺子屋の師匠には武士や僧侶や神主がなったが、一番多いのは商家のご隠居さんだったという。かならずしも収入が目当てではなく、ボランティア精神も旺盛だったようだ。面白いのは授業風景で、生徒達は決してお行儀がいいわけではない。片隅でとっくみあいをしているのもいれば、墨でいたずら書きしている子供もいる。師匠さんはそんなことお構いなく、一人一人個人教授をする。現在残されている寺子屋の絵からはそんな自由な様子がうかがえる。
寺子屋を卒業した後、さらに学びたい者は「塾」に通う。緒方洪庵の「適塾」や吉田松陰の「松下村塾」、広瀬淡窓の「咸宜園」などが有名だが、そのほか本居宣長、中江藤樹、伊藤仁斎など有名な学者はほとんど塾を開いて、全国から俊英をあつめていた。これらは私塾だが、もちろん幕府や藩の正式な学校もあった。
<大体、適塾でも咸宜園でも、入塾のときの条件の「三奪」というのがあります。つまり、武士の子でも町人の子でもみな同じ、家柄を問題にしない。また年齢を問わない。そして従来の学歴は無視する。こうした家柄、年齢、学歴を奪うという意味で「三奪」なのです。吉田松陰の松下村塾などには、10歳に満たない子供や、土地のゴロツキまで通っていたそうで、要は学問をする姿勢と、試験による成績次第だったのです。
しかし、こんな環境でありながら、いや、むしろこうした残酷ともいえる環境だったからこそ、学生どうしの友情は厚く、塾をやめても一生のつきあいになるのです。また、師匠もそれを強く望んでいた>(江戸を楽しむ)
おなじ「塾」といっても受験競争にあけくれている現代の「学習塾」とはいささか趣が違っている。富国強兵をスローガンにした明治政府は寺子屋を排して、近代的学校制度を作り上げた。そこでは全国一律におなじ国定教科書をつかって一斉授業が行われた。そうしたなかで外国人を羨望させせた「寺子屋」も「塾」も亡びるしかなかったが、これはとても残念なことである。
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