橋本裕の日記
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| 2003年07月29日(火) |
民主主義は論理重視から |
一昨日の日記「数学軽視の日本社会」について、スピンさんが「数学軽視は論理軽視である」として、こんな書き込みをしてくれた。
<民主主義が機能不全に陥りがちなのも、「論理」軽視に由来すると私は思います。R.P.Feynmannが書いているように、ある行動の自由が正当化されるためには、厳密な論理ではどのように行動するべきかを決めようがないという条件が必要です。また、こうした自由を持つ国民が論理的には決定できない政策的判断を行うために、多数決が必要となります。そして、どこまでを論理的に判別できるかを明らかにするために言論と議論が必要になります。
ところが、論理が軽視される社会では、論理的には誤りとはっきりしているような犯罪や失政に対して、自由が主張され、他方では、論理的には正当化しようのない個人的な恣意によって自由が侵害されてしまいます。このように、自由の意味がはきちがえられているので、議会での議論、多数決も機能しなくなります>
本当の自由は論理的必然の上に築かれるというファインマンの指摘はその通りだと思う。ラッセルもどこかで同様の思想を述べていた。私も以前、この問題を考察したことがある。
<言語は論理と呼ばれる普遍的な構造によって、我々の精神にある客観性と合理性を与えます。この客観性と合理性こそ、真理と呼ばれるに値するものの土台であり根底なのです。人間を人間たらしめているものは言語であり、人間をその根底で支えているものは言語だと言えるのです> (「人間を守るもの」第二章精神と言語、言語の恩寵)
人類として初めて、論理的な言語の使用に目覚めたのがギリシャ人だ。彼らが発明した学問や民主主義という制度の根底には論理的な言語に支えられた「言論の自由」がある。
民主主義を論理的に考察し、三権分立にもとづく議会制民主主義を提唱したジョン・ロックは「自由を生み出すものは法である」と書いている。民主主義という制度はこうした論理的な言語とそれによって保障された言論の自由によって支えられているわけで、「論理軽視の社会」に民主主義が根付くわけはない。
ここで思い出すのが、映画「12人の怒れる男」だ。これは北さんに薦められて見たのだが、見事に民主主義社会における言論の大切さを描いている。北さんの解説を引用しよう。
<映画の主人公は、状況証拠として取り上げられていた証言の疑問点を、一つ一つ論理的に、根拠をあげて証明していきます。民主主義のルールとして確立された「判決は全員一致」と「疑わしきは罰せず」によって、一人の人間の「言語の論理性」が、少年の命を救うことになります。
12人の陪審員の中には「言語の論理性」が身についていない人物が登場します。その人物は「スラムで育った奴らは人間のクズばかりだ。やつらは嘘つきのろくでなしで絶対信用できない」という先入観に凝り固まった発言を繰り返すばかりで、まったく論理性がありません。有罪に固執する最後の3人の1人になりますが、彼の発言をみんな無視します。そして仲間であるはずの3人のうちの1人からも「あなたの話は金輪際聞きたくない」と言われてしまいます。
<民主主義の前提は言語の論理性>をこれほどみごとに描いた場面はありません。しかし、「民主主義」「本当の自由」が現実問題として実現されるためには、もう一つ重要な要素が必要になります。それは「勇気」です。「12人の怒れる男」は、1人の人間の勇気によって、命が救われる物語でもあります。
最初にただ1人無罪に挙手する人物がいなければ、民主主義のルールとして確立された「判決は全員一致」も生かされることがありません。11人を敵に回し、その嘲笑、罵倒にひるまずに対抗していくためには、そうとうの勇気が必要です。勇気がなければ「言語の論理性」を駆使すること自体が始まらないのです。
私は「12人の怒れる男」を少なくとも100回は観て、ヘンリー・フォンダ演じる主人公の「勇気」がどこから出てくるのかを考えました。そして、たどり着いたのは、彼の「教養」でした。彼が勇気をもてたのは、彼が真の大人の「教養」を身につけていたからだと思います。
その「教養」とは、人間に対する愛情を核として構築された<民主主義という人間を大切にする最高の理念>ということです。この理念がしっかり身についていたからこそ、どんな非難にも耐えられたのだ、ということが、この映画では実に自然に理解できるように作られているのです>
「12人の怒れる男」は民主主義の絶好の教材である。これを授業で生徒に見せ続けてきた北さんの努力に敬意を払いたい。ここに引用した北さんの文章は、この映画について私が読んだもっともすぐれた解説である。
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