橋本裕の日記
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2002年08月31日(土) 親鸞との対話

 高校時代にデカルトの「方法序説」やラッセルの著作とともに、「歎異抄」に出会えたことは、私にとって幸運なことだった。これは私が通っていた私立高校が浄土真宗系のミッションスクールだったこともある。

 亀井勝一郎は、「親鸞を語ることは私にとって、人生を語るに等しい。私のまず最初に言うべきことは、親鸞に出会ったという、その謝念でなければならぬ」と書いているが、この気持はよくわかる。

 私たちの世代は、まだ哲学や思想を尊敬し、人生の美や真理にあこがれる気持が残っていたのではないかと思う。三木清の「人生論ノート」なども必読書の一つだった。三木の言葉をいくつか引用しよう。

<親鸞の文章を読んで深い感銘を受けることは、人間的な情味の極めて豊かなことである。そこには人格的な体験が満ち溢れている。経典や論釈からの引用の一々に至るまで、ことごとく自己の体験によって裏打ちされているのである。親鸞は常に生の現実の上に立ち、体験を重んじた。そこには知的なものよりも、情的なものが深く湛えられている。彼の思想を人間的と言い得るのは、これによるであろう>

< 『教行信証』は思索と体験とが渾然として一体をなした稀有の書である。それは根底に深く抒情を湛えた芸術作品でさえある。実に親鸞の、どの著述に接しても、我々を先ず打つものは、その抒情の不思議な魅力であり、そしてこれは、彼の豊かな体験の深みから溢れ出たものに他ならない>

<最近の禅の流行にもかかわらず、私にはやはりこの平民的な浄土真宗がありがたい。おそらく私はその信仰によって死んでゆくのではないかと思う>

 日本の知識人には親鸞を敬愛する人が多い。夏目漱石も「親鸞聖人に初めから非常な思想があり、非常な力があり非常な強い根底のある思想を持たなければ、あれ程の大改革はできない」と述べている。しかし、親鸞といえばやはり倉田百三を落とすことは出来ない。

< 『歎異鈔』の「悪をも恐るべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきが故に」これは恐ろしい表現である。世界のどの経典にこんな恐ろしい、大胆な表現があるか。ニーチェでも、トルストイでも、ボードレールでも、これを読んだら驚くだろう。トルストイの如きは、八十二歳の家出後において死なずにこれを読んだら、更に転心して念仏に帰しはしなかったであろうか>

「歎異抄」は親鸞の自著ではない。弟子の唯円が師の言葉を思い出して書き残したものだ。だから、親鸞の本当のすごさは主著「教行信証」を読まなければ分からないという。というわけで、私も(現代語訳で)読んでみたが、歎異抄ほどの感激はなかった。

 私にとって親鸞といえば「歎異抄」である。これを読んでいると、プラトンの対話篇を思い出す。親鸞はどこかソクラテスに似ている。ソクラテスが弟子プラトンを持ったように、親鸞が唯円を持ったことを喜びたい。

<今日の一句> 木陰きて いのちなりけり 秋の風  裕


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