橋本裕の日記
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2002年09月01日(日) 月光の夏

 神山征二郎監督の映画「月光の夏」を観た。この映画は実話をもとに製作されたのだという。観ていて何度も涙を誘われた。特攻隊員のかなしみがよく表現されている。そして特攻という非人間的なシステムの実態がよくわかる映画だった。とりあえず、あらすじを紹介しよう。

 太平洋戦争末期の昭和20年5月。佐賀県鳥栖市の小学校に、二人の若い特攻隊員が来校し、ピアノを弾かせてくれと申し出る。二人は実は親友で、元音楽学校の生徒だった。今生の別れに、グランドピアノが弾きたくて、外出許可をとってやってきたというのだ。さいわいその小学校にはドイツ製のすばらしいグランドピアノがあった。

 校長、教頭、音楽教師の吉岡公子(若村)や児童の見守る中で、一人の青年がベートーベンのピアノ・ソナタ「月光の曲」を、見事に演奏する。それから、もう一人の青年の演奏で「海ゆかば」の合唱。このあと23歳の二人は、知覧飛行場から沖縄沖の米軍艦船めがけて特攻出撃する。

 音楽教師の公子の耳に、青年の弾いた月光の曲が記憶され、教員や児童に見送られ、何度も振り返りながら手を振って帰って行った二人の姿が目に焼き付いた。しかし、名前もわからず、戦争が終わっても二人の消息はようとして知れない。                    
             
 戦後40年以上経過したある日、教職を退職した公子は、久しぶりに小学校に行き、老朽化したグランドピアノが破棄処分される事を知る。そのピアノを引き取りたいと思った公子が、校長に事情を話すと、是非その話を全校児童に話してほしいと言われる。こうしてグランドピアノをめぐる戦争秘話が明らかになり、テレビや新聞でも紹介された。 

 ピアノを修復して、その美しい音色を甦らせようという運動とともに、二人の特攻隊員のその後の消息をさがそうという機運が盛り上がる。しかし、生き残った特攻隊員の多くは口が重く、なかなか取材に応じようとしない。やがて二人の青年のうちの一人が生存していて、熊本に住んでいることがわかったが、彼(仲代達矢)もまたマスコミの取材に、「そんな記憶はない」と答え、公子の話はピアノを保存する為のつくり話だという疑いがマスコミで報道される。

 エンジントラブルで特攻に失敗した彼は、福岡の特攻指揮本部に送られ、そこで卑怯者として上官から侮辱され、そうした隊員たちを集めた寮に軟禁状態に置かれた。再度特攻を志願しても許されず、彼は名誉回復されないまま終戦を迎えていた。ピアノを一緒に弾いた親友や他の若い特攻隊員の死に負い目を感じ、そうしたいまわしい過去を、だれにも語らず、寡黙に生きてきたのだ。

 そうした事情にうすうす気付いた公子は、彼に手紙を出す。公子は「私はただ、子供たちに戦争の真実を伝えたかっただけなのです」と述べ、その事が彼に迷惑を及ぼしたことをわびた。その公子からの手紙が彼の心を揺さぶり、彼に特攻隊の真実を語る決心をさせる。そして、再びグランドピアノと対面し、彼女や児童達の前で、今はない親友が弾いた「月光の曲」を演奏する。

 いま、そのピアノは知覧の戦争記念館に展示されているという。ネット検索で調べたところ、佐賀県鳥栖商業高校の弥永裕香さんの「戦争と私」という文章があったので、その一部を引用しよう。

<「戦争」それは、もはや大昔の出来事として、忘れ去られようとしています。 「戦争を知っていますか。」と、問われれば、誰もが知っていると答えるでしょう。しかし実際には、戦争とは何か、全くに近いほど知らないのです。私自身も、何も知らないのです。いえ、知らないということ自体に気が付いていなかったのです。

 私がそのことに気がついたのは、中学三年生の時、修学旅行で知覧を訪れてからでした。館内に所せましと貼られた若い特攻隊員の、やさしく微笑んだ顔、きりりと引き締まつた顔、遺品や、涙をさそう遺書、そしてフッペルのピアノが置いてありました。このピアノは、私の母校、鳥栖小学校にあったものでした。

 それは、私が小学生の頃には、誰も振り向かず、誰も手入れをせず、やがて朽ちていくはずのピアノでした。ましてや、そのピアノに秘められた歴史のことなど誰も、知るはずもありませんでした。そのピアノが、映画「月光の夏」で再び命を持ったとき、悲しい思い出もよみがえることになりました。そのピアノこそ、私に戦争という歴史の存在を教えてくれたのでした>

 同じく、ネットで検索した文章からの引用である。
<映画に登場する特攻隊長は出撃したパイロット中最年長の25歳。音楽の道に進むことを戦争で阻まれ、出撃前日にどうしてもと小学校のピアノを借りるふたりの隊員は23歳。以下18歳と17歳の隊員が続く。

 終戦間際の日本は、こうした少年たちまで飛行機に押し込み、敵艦に体当たりすることを強要した。しかし多くの特攻機は待ち受ける敵の戦闘機や艦船の機銃掃射に会い、目的を遂げる前に撃墜される。

 映画にはアメリカ軍が撮影した特攻機の映像が挿入されているが、敵艦の前で海に墜落したり、ばらばらに解体しながらきりもみ状態で墜落して行く飛行機の一機一機全てに日本人の若者が乗っていたことを思うと、僕は胸を押し潰されるような気がする>

 「いま特攻隊の死を考える」 (白井厚編、岩波ブックレット、2002年7月)のなかに、次のようなインタビューが収録されている。特攻で兄を失った女性と白井さんの対話である。

「兄は特攻隊員で、沖縄で突入して死んだのです」
「アメリカの軍艦に命中したのですか?」
「いえ、海の中に落ちたそうです」
「それは残念でしたね」
「でも誰も殺さないで兄だけ死んだのだから、それでよかったと思います」

 神風特攻隊の生みの親、大西滝治郎中将は特攻隊のことを「統制の外道」と自嘲的に呼んだという。特攻隊は統帥権を持つ天皇の裁可を得た正式な部隊ではなかった。責任が皇軍統率の最高責任者である天皇に及ばないようにとの思いもあったらしい。

 こうした非常命令によって、自らの命をすて国家のために散った有意な特攻青少年の数は、ゆうに1000名を超えている。私は彼等の死に憤りとかなしみを覚える。しかし彼等の愛国心を賛美する気にはなれない。本当の愛国心はもっと広い心で、人類の平和と繁栄のために捧げられるものでなければならない。

<今日の一句> 特攻の 少年あはれ 夏に逝く  裕


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