橋本裕の日記
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2002年08月29日(木) ガリレオと無限

 アリストテレスは「自然学」のなかで有名なゼノンの4つのパラドックスを紹介し、この矛盾を解決しようとしている。たとえば「カメを追い越せないアキレス」については、「有限な距離の無限分割」にたいして「無限な時間の無限分割」を対応させたことが誤りだと論証した。

 また、「飛ぶ矢は飛ばない」といった運動の矛盾については、長さをもった線分を無限分割しても、長さを持たない点になることはないと考え、「線が点からなる」という命題がそもそもあやまりであると主張した。

 アリストテレスの「自然学」の批判者だったガリレオも、「新科学対話」のなかで「無限と有限」について論じている。たとえばサルビアティの口を借りて、円は「無限に多くの辺」をもつ多角形であると述べる。そしてこの辺の数を限りなく多くすることによって、辺はただの点になるという。しかし、これはガリレオの独創ではない。アルキメデスやケプラーが実際にこの方法で面積や体積、惑星の運動法則を導き出しているからだ。


 しかし、ガリレオは無限を数えるという点で、実は後の集合論におけるカントールの仕事を先取りするような先駆的な考察をしている。たとえば再びサルビアティの口を借りて、自然数とその二乗数の間に1対1の対応があり、「二乗数は整数全体と同じだけあるものと結論しまければなりません」と主張している。

 自然数 1,2,3,4,5,・・・・
 二乗数 1,4,9,16,25,・・・・

 自然数の中には二乗数以外の数が無限にある。それにもかかわらず、二乗数の数は正確に自然数の数に等くなる。これは「部分は全体よりも小さい」というユークリッドの公理に反している。この事実を発見して、ガリレオは衝撃を受けた。

 このことからガリレオは有限の場合になりたつ規則を無限の場合に適用すれば不可解なことが生じると考えた。とにかく無限には日常的な常識を越える不可解な部分があるのである。ガリレオは無限についての本を書こうとしたようだが、結局その志をはたすことなく死んでいく。無限の神秘をきわめるのは、彼の人生はあまりに有限すぎたということだろうか。

 のちにカントールやデデキントは、ガリレオの「一対一対応の規則」を無限の場合にも成り立つと考えた。そして、デデキントは「無限とは、部分が全体に等しいもの」だと定義することになる。

 このようにガリレオはゼノンが提起し、アリストテレスが解決したと信じられていた厄介な「無限」の問題についても、これを再考すべき問題として俎上に載せた。そしてその後の数百年にも及ぶ数学や物理学の発展に計り知れない影響を与えることになった。

 なお、中国もゼノンに近い人物は存在した。それは荘子である。
「飛ぶ鳥の影はいまだかって動いたことはない」
「素早く飛ぶ矢は進みもせず、止まりもしない」
「一尺の鞭を半分ずつ切り取っていくと、何年かかっても取り尽くせない」

 しかし、荘子は「これらの弁者は口先で勝ちながら、相手を納得させることはできなかった」と記すのみで、対話や論争によって主題に踏み込み、論理的・実証的に真実をつきつめようという科学的精神を欠いていた。したがって、アリストテレスやユークリッド、アルキメデス、ガリレオが生まれることはなかった。

<今日の一句> しんとして 蝉ひとつだけ 道端に  裕


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