橋本裕の日記
DiaryINDEXpastwill


2002年08月28日(水) ガリレオと「新科学対話」

 1633年7月、裁判の余波が続く中で、ガリレオの身柄は検邪聖省の地下牢から、やがて大司教ピッコロミーニのもとに移された。しかし、このときも、ガリレオは数日間にわたって夜眠ることもせず、大声で叫んだり、意味不明のことをしゃべり続ける状態だったという。

 しかし、さいわいなことに、ピッコロミーニはガリレオの理解者だった。「天文対話」を優れた著作だと認め、その著者に対する尊敬を失わない大司教の庇護のもとで、ガリレオは少しずつ精神的に立ち直りをみせた。そして、次作「新科学対話」の草稿を書き始める。

 この新しい対話の登場人物も、また、シンプリーチョ、サルビアティ、サグレードの3人である。たとえば、サルビアティが砲撃砲から発射された砲丸の運度について述べると、サグレードがすかさず指摘する。

「この論法が今までになかったものであり、精妙で、決定的なものであることは疑う余地がありません。水平方向の運動は常に一様であり、垂直方向の運動は経過時間の二乗に比例して下向きに加速され続けること、そしてこのような運動と速度はお互いに他方を変化させることはないということです。その結果、運動はつねに一定の曲線を描くことになります」

「新科学対話」はこれまでガリレオが行ってきた科学に対する実験や理論の集大成である。そして舞台は何と、造船所である。大学の研究室や教会ではなく、ガリレオが職人のいる現場を舞台に選んだ意味はあきらかだろう。彼が始めた新しい科学は、数学と物理学を統合することであり、それにはこうした活気に満ちた生産現場がふさわしいのである。

 そして実は、サルビアティ、サグレードはガリレオの愛した友人と弟子の名前だった。彼はこの二人を彼の著作に登場させることで、その名前を人類史上に永遠に刻むことになった。

「新科学対話」はローマ法王庁の目を盗んで、1638年にオランダで出版された。これはガリレオ自身が自分の最大の著作だと認め、また後世からもそのように評価されている偉大な本である。しかし、ガリレオはこのときすでに失明していて、この本を読むことは出来なかった。4年後、ガリレオは、こんな言葉を残して、78歳の生涯を終えた。

「遠大で優れた科学に至る門と道が開かれるであろう。それを私より鋭い精神が突き抜けて、より深い奥底にまで到達するであろう」

 ガリレオの予言の通り、やがてニュートンの鋭い知性がガリレオの考えていたことを、次の三つの法則にまとめ上げた。
慣性の法則(外力を受けない限り、物体は運動状態を変えない)
運動の法則(加速度は物体に加えられた力に比例し、質量に反比例する)
作用・反作用の法則

 自然界の現象を力学的に捉え、それを数学を用いて表現する方法は、アルキメデスに学んだガリレオが切り開いた、科学の新しい王道であった。ふたたび、サグレードの言葉を引用しよう。

「数学でしか見られない厳密な論証に接して、私は脅威の念と喜びでいっぱいです。砲手の説明から、私は砲弾が最も遠くまで飛ぶ角度は45度だということを知っていました。しかし、そのことがなぜ起きるのかを理解することは、たんなる知識よりはるかに勝っています」

 ガリレオは単に「すべてのものが同時に落ちる」ことを、実験であきらかにしただけではない。大切なのは、なぜそうなるのかを、厳密に論理的に証明したことである。彼はすべての砲弾や人間の手を離れた石つぶてが、放物線を描くことに気付いただけではない。それを数学的に論証して見せたのである。

 1971年、アポロ15号の船長スコットは、月面にハンマーとタカの羽を落とし、両者が同時に落下するのを見て、「これでガリレオが正しかったことが証明された」と語った。

  1992年、教皇ヨハネ・パウロ二世は、法王庁がおかした過去の誤りにはじめて言及し、ガリレオの思想を是認している。NASAの打ち上げたガリレオ探査機が木星に到達したのは、その3年後の1995年のことだった。

<今日の一句> 世の中を 愁うるごとし 冷酒のむ  裕


橋本裕 |MAILHomePage

My追加