橋本裕の日記
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2002年08月27日(火) ガリレオと「天文対話」

 宇宙のことをユニバースというが、これはユニ・バース(一つの・回転するもの)という意味である。つまり、宇宙は地球を中心として、そのまわりを回転しているという天動説の世界観に根ざした言葉である。現代でもこの言葉が使われているということは、それだけこうした考え方が私たちの中にしみついているということだろう。ましてガリレオの生きていた時代、地動説は確固不動の真理としてゆるぎない地位を築いていた。

 こうしたなかで、ガリレオは自らの望遠鏡で天体を観測し、土星の輪や木星の衛星を発見した。さらに太陽が黒点をもち、自転をしているらしいことに気付いた。これは宇宙が回転する唯一の存在でないことを示していた。そして地動説を示唆する有力な証拠でもあった。ガリレオはさっそく1610年に「星界の報告」を出して、このことを世間に公にした。

 このときからガリレオはアリストテレス派の聖職者たちとの果てることにない論争の中に身を置くことになり、その執拗な攻撃にさらされて、心身の不調に悩まされることになる。1616年、ガリレオはベラルミーノ枢機卿に呼び出され、「地動説」を支持することを慎むように言い渡される。

 さらにコペルニクスの地動説を禁ずる布告が出された。しかし、ガリレオはそうしたなかで、彼はこれに対抗するようにコペルニクスの学説を擁護する本を書いて、1632年に出版した。「二大世界体系〜プトレマイオス説とコペルニクス説〜に関する対話」いわゆる「天文対話」がこれである。この本は出版されると同時に、ヨーロッパ中に「星界の報告」以上のセンセーションを巻き起こした。

 ガリレオはこの本を3人の人物の4日間にわたる対話形式で書いている。つまり、天動説をとるシンプリーチョ、地動説のサルビアティ、そして進行役を務める資産家のサグレードである。舞台はサグレードの広大な邸宅である。

 サルビアティはガリレオの分身と言ってよい。そして地動説の優れているところを、巧みな例をもちいて論証する。この本を読んだ人はだれでも、地動説の卓越していることを納得するだろう。それに比べて、天動説のサルビアティは頑固であり、さっそうとしたサルビアティの傍らで、滑稽な狂言回しのようにさえ見える。

 ガリレオはもちろん用心深く、サルビアティに最後に地動説が「きわめて愚かな妄想にして壮大な奇説であると、たやすく判明するかもしれません」と言わせている。また、シンプリーチョも、「神の力と英知を、ある人間が自分の特殊な気まぐれの範囲内に限定するということは不遜すぎるということです」と語らせている。

 ガリレオとしてはこう書くことでバランスをとり、「地動説を禁ずる」という布告に抵触しないように配慮したつもりかも知れない。しかし、ガリレオの本音が「地動説の擁護」にあるということは明らかだった。そもそもシンプリーチョという名前からしておかしい。だれしも、間抜けという意味のセンプリチョットを連想する。

 しかも、この間抜けなシンプリーチョのモデルは教皇だと告げ口する者がいた。教皇は激しい怒りを爆発させた。そして、「対話」を販売禁止にするとともに、彼を異端審問所に出頭させることにした。このとき、ガリレオは70歳にちかく、しかも病気がちだった。

 教皇ウルバヌス八世も枢機卿時代はガリレオの友人であり、そもそもガリレオにこの本を書くことを示唆したのは彼自身だった。その昔、教皇がまだ枢機卿だったころ、彼はこんな詩さえガリレオにプレゼントしているのである。

  天を見上げれば
  目に映りし
  土星とその耳
  天の川とその涙
  天のすべてを発見せしは
  汝のレンズなり
  汝、誉れ高きガリレオの業なり

 しかし、教皇として長年に渡り独裁的な権力を握った彼は、ガリレオに対する寛容な気持もうすらいでいた。自分をしのぐガリレオの人気や才能に対する嫉妬もあったのかもしれない。ガリレオにしてみれば、かっての友人であり、庇護者とも頼んでいた教皇の変心と怒りは思いがけないことだった。

 ガリレオは数ヶ月に渡って、ローマに拘束された。四月の検邪聖省での尋問から帰ってきたガリレオは「生きているというより死者にちかい」状態だったという。6月に実施された査問のあと、十人の審問官のうち7人がガリレオを有罪と認め、彼の罪が確定した。

「地球は世界の中心でなく動くものだという誤った見解を完全に放棄する」ことを誓うことで、極刑は免れたが、なおそれでも生涯に渡って軟禁されることになった。「天文対話」は販売禁止になり、その他の著作も版を改めることはできなくなった。

<今日の一句> 蚊をつぶす 夜叉のごとくに 月の夜  裕


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