橋本裕の日記
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2002年08月26日(月) 結婚まで

14.切られた花
 ドアを開けて、靴を脱ぎながら、手探りでキッチンの電灯をつけた。ドアの新聞受けを調べると、そこに合い鍵が入っていた。S子が部屋で待ちかまえているのではないかという不安とともに、合い鍵を持ち帰りはしないかという恐れがあった。とりあえず、その危惧は解消した。

 私はさらに居間と寝室をしらべ、異常がないことを確認して、ほっとしてソファに腰を下ろし、頬をなでた。無精髭がすこし伸びていて、掌がざらついた。私はふと、この同じ手がS子のやはらかな乳房を撫で、太ももを撫でたり、秘所に触れたりしたのだと思った。

 S子と別れようと思いながら、私はいつも毅然とした態度をとることができなかった。彼女のあたたかな呼吸を間近に感じ、そのからだの匂いをかぐと、自制心を失って彼女の中に溺れて行ってしまう。それはセックスだけの快感だったが、こうしたことを繰り返していれば、ますます深みに入って行くことは明らかだった。

「私のこと、好き?」
「うん」
「だったら、私を捨てないでね」
「………」
「捨てたりしたら、承知しないから」
 快楽の余韻を味わうゆとりはなかった。私はいつもS子の言葉で、寒々とした現実に引き戻された。

 教職を得て、これから私の前途が拓けようとしていた。冷静な私の理性は、S子が伴侶としても、また遊び友だちとしてもふさわしい女性ではないこと、そして一刻も早く手を切ることが人生の賢明な選択であることを、もう随分前から主張していた。しかし、私は肉体の奥底から湧いてくる盲目的な力の前で、いつも苦い敗北を味わっていた。

 上着を脱ぐと、風呂の準備をした。洗い場のタイルにS子の髪が張り付いているのを取り除き、それを屑籠に入れようとして、私は息を呑んだ。屑籠の底に、昨日K子から貰った誕生日の花束が、無惨に切り裂かれて捨てられていた。私の周囲で何かが音を立てて崩れたようだった。日常性という人生の守護神が、少しずつあとづさりをはじめていた。

 私は震える手でお湯を湧かし、キッチンのテーブルに坐って、インスタントのコーヒーを飲んだ。テーブルの端に包丁が置かれてあり、刃先が蛍光灯に照らされて光っていた。S子が花を切り刻んだ後、そこに置いていったのだろう。その無機質な光を見つめながら、私は自分がいま、底知れぬ虚無の中に落ちていこうとしているのを感じた。

<今日の一句> そよかぜに 父母のおもかげ 山中湖  裕

 富士山は雲の中だったが、宿のある山中湖の湖畔に立つと、さわやかな風に全身が包まれた。広々としたみずうみは所々薄日に照らされて光っていた。本栖湖にロマンチックな女の風情を求めた私が、この広々としたみずうみに感じたのは、慈しみに満ちた父母の面影だった。


橋本裕 |MAILHomePage

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