橋本裕の日記
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2002年08月25日(日) 庶民の文学

 旅から帰って3日になるが、まだそのすがすがしい余韻の中にいる。俳句や短歌もいくつかできた。たとえば、富士山の清水でできたという忍野八海池を眺めていて、何となく口を出たのが、次の句だった。

  池澄みて淵に光を沈めたり  裕

 しかし、この俳句はどこかで見た記憶がある。旅から帰って本を探したら、石原八束さんの「現代句秀品批評」のなかに同じような句があった。上野章子さんの「桜草」という句集の句らしい。

  水澄みて光を底に沈めけり  上野章子

 上野章子さんは俳人高浜虚子の六女だという。これにちなんで、「六女」という句集も出している。その中から私の好きな一句。

  全身をのばし物取る炬燵から  上野章子

 炬燵に坐ったまま、全身を伸ばしている無精さかげんがユーモラスに詠まれている。ちょっと官能的な匂いを感じる。それでいて、さわやかだ。

「どんなところでもいい。上野さんが見えると、空気が違ってくる。すっとして爽やかになる。上野章子さんという方は、一個の作品、と私は思っている。作品たらしめているのは、上野さんの無邪気。その俳句は天衣無縫」

 これは川崎展宏氏の評である。もうひとつ、河盛良蔵氏の言葉も紹介しておこう。いずれも「現代句秀品批評」からの孫引きである。

「近頃は女性俳人が多くなって、まことに好い句を作っているのを見かける。自分も俳句が好きだったから機会をみては注意して読んでいるのだが、雑誌の主宰者などの専門俳人の句の方がよほどよくないね」

 俳誌を主宰している石原八束さんは、この言葉に赤面すると同時に、「俳句は専門家と素人も余り上下の差異のない庶民の文学だな」という思いをいよいよ深くしたいう。

 俳句は人の作品の方が面白いということがある。これを俳句の文学性の浅さだととらえる人がいるが、私はそうだとは思わない。文学の神様には作者名などどうでもよいのだろう。作品の心がゆたかで、その表現の「天衣無縫」であることを、こよなく愛するだけのことだ。

<今日の一句> みずうみに 淋しい女 さがしけり  裕

 本栖湖での作句である。海にくらべて、みずうみは女性を感じさせる。雲が多く、人が少なかったせいか、あるいはうらびれた私の心のせいか、しきりに淋しげな女性の影をさがしていた。「淋しき女」よりも「淋しい女」の方が現代の孤独を感じさせて語感が好いようである。


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