橋本裕の日記
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数学を学ぶことの意義を、もっとも深く理解していたと思われる歴史上の人物の一人にプラトンがいる。彼は著作「法律」のなかで、こう述べている。
「数学には必要にして欠くべからざる何物かがあります。クレイニアスよ、もし私の間違いでなければ、数学は神の必要とするものなのです。・・・それを知り、それを用いないでは、人間が世界に対して神のごとく振る舞うことができないだけではなく、聖霊にも英雄にもなれない、いや、まじめに人間のことを考えたり、世話を焼いたりさえもできない、そうした知識なのですよ」
しかし、いまやこのプラトンの言葉は空しく響く。数学の教師はこのプラトンの言葉をほとんど理解しないだろう。なぜなら、彼等は数学を教えているのではなく、およそ数学と縁もゆかりもない、ただ間違って「数学」よばれているところの、さまざまな計算の規則や、雑多で、なんら人間の精神を啓発することのないがらくたを教えているだけだからだ。
こうした状況はたとえば、次のようなふうにたとえられる。いま数学の壮麗な 宮殿があるとしよう。ところがその前に、若干の石段がある。生徒はその石段を登って、宮殿の入り口にたどり着かねばならない。ところが、ここに思いがけない障害物がある。
その障害物とは何か。それが数学の教師である。彼等は宮殿に背を向けたまま、この石段の途中に立って、そこを勇んで登ってくる生徒に、さまざまないやがらせをする。たとえば、石段をウサギ飛びをして上れとか、登った後、もう一度下まで降りて、この反復練習を何十回となく、もうすっかりくたびれはてるまで繰り返せと強制するのである。
もちろん教師は決して悪意を持ってこうしたことを強制しているのではない。彼等自身、彼が生徒であったときこのような訓練を受けたのである。そしてその結果、数学とはこの石段をだだ意味もなく上り下りする苦役であり、忍耐力をつけるために必要な訓練なのだと誤解してしまったわけだ。その石段がただ本当の数学の宮殿へと通じる通路に過ぎず、そこを無難に何事もなく通過させることが、まず彼等教師のさしあたっての役割であることに気付いていないだけだ。
上に述べた、見事な比喩は私の発明ではない。イギリスの数学者で、私の敬愛するバートランド・ラッセル(1872〜1970)がもう一世紀も前に、「数学の研究」(1902年)という論文のなかで述べているからだ。実のところプラトンの引用も、ラッセルのこの論文からの孫引きである。それでは、最後にラッセル自身の言葉を引用しよう。
「彼等は神聖な扉に通じる階段の上で暮らしているのだが、背中を強情に殿堂の方に向けているので、殿堂のあること自体を忘れてしまうのである。熱心な若者は、殿堂のドームやアーチに入るために、押しのけて進もうとするが、彼等は若者たちに、回れ右をして階段の数でも数えていろ、と命令するのである」
「一般的なものを一般的なものとして処理する能力は、数学教育が与えるべき恩恵のひとつである。しかし概して数学の教師は、代数を算術から分かつ溝を説明する能力が何と僅かしかないことであろう。そしてまた学習者は、それを理解しようと暗中模索しているのに、何と僅かしか援助してもらえないことだろう」
「ふつうは算術で採られていた方法が続けられている。すなわち、何の理由も説明せずに、規則が並べられ、生徒はその規則を盲滅法に使うことを習い、やがてその生徒が先生の望む答えを出せるようになると、代数の難しさをマスターしたと思う、といった有様である。しかしその生徒が、用いられた計算方法をほんとうに理解しているかどうかといえば、おそらくほとんど何物をも得ていない、といってよかろう」
「数学を正しく教授する場合に、その主なる目的の一つは、学習者の理性に対する信念、証明されたことの真理性に対する自信、および証明の価値に対する自信を目覚ますことにある。この目的は今の教え方では達しえない」
「どうすればそれを達しうるかを理解することは容易である。算術について言えば、今のところ一組の規則を教え込まされはするが、その規則は、真実としてでも虚偽としてでもなく、ただ先生の意志として、何か分からない理由で先生がそれに従ってゲームをやりたがっているルールであるとして示される」
「算術のように明らかに実用性を目的とする学科の勉強では、こういう行き方はある程度避けがたい。しかしできるだけ早い機会に、どんな方法でもよいから、子どもの心に最も容易に訴えるような方法で、それらの規則の理由を説明してやるべきである」
「数学は真理を持っているばかりではなく、最高の美を持っている。それは彫刻の美のように冷たく厳しい美しさであって、我々の弱々しい天性に訴える何ものもなく、絵画や音楽のもつ絢爛たる飾りもなくて、しかも気高く純粋で、最大の芸術のみが示しうる厳格な完成に満ちている。最高の優雅さのしるしであるところの、真の喜び、精神の高揚、人間でありなが人間を超えた存在の一部であるという感じ、それらは詩の中と同じくらい確かに数学の中にも見出されうる」
「数学における最もよきものは、学業として学ぶに値するばかりではなく、日常の思惟の一部として同化し、常に新たな感激をもって繰返し繰返し心に思い浮かべるに値するものである」
「人間的情熱からかけ離れたところに、自然の憐れむべき諸事実からさえもかけ離れたところに、代々の人類は一つの秩序づけられた宇宙を段々と創造してきた。そこでは、純粋思惟がわが家に住まうように住まっており、われわれの高貴な諸衝動の少なくとも一つは、現実世界という恐ろしい幽閉から脱出することができるのである」
ラッセルは「数学原理」の著者として20世紀最大の世界的数学者の一人であるばかりではない。同時に第一級の哲学者であり、ノーベル文学賞を受賞した名文家である。またラッセル=アインシュタイン宣言で核兵器廃絶を世界に訴えかけた社会運動家である。しかし、彼が教育者として学校を作り、なみなみならぬ実践活動をしていたことはあまり知られていない。
上に引用した文章から、彼の教育についての情熱の一端をうかがい知ることが出来よう。しかし残念ながら私たちは、100年前のイギリスの数学教育の悲惨と滑稽を笑うわけにはいかない。日本ではラッセルが指摘した教育の悲喜劇が、いまも大まじめに演じられ続けているからだ。 (参考文献) 「神秘主義と論理」ラッセル著 江森巳之助訳 みすず書房
<今日の一句> ほとばしる 富士のわき水 白き手に
富士山の伏流水がこんこんとわき出てくる忍野八海。その湧き水に手を浸けて、冷たさに驚いた。湧き水に女性の白い手が伸びていた。
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