橋本裕の日記
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アメリカの哲学者で実践的な教育家でもあったデューイ(1859-1952)は「学校と社会」のなかで、学校とは暗記と試験にあけくれる受動的な学習の場ではなく、子供たちが自発的な社会生活を営む「小社会」でなければならないと書いている。こうしたデューイの思想と実践が大きく世界の教育を変えた。教育の問題を、その本質から考えようとするとき、デューイの著作はいまも生きた古典として、私たちの前にそびえ立っている。
「机がきちんとならべられてある伝統的な学校教室から暗示を受けるもう一つのことは、できるだけ多数の子どもたちをとりあつかうために、つまり、子どもたちを個々のものの集合体としてひとまとめにとりあつかうために、すべてがあんばいされていることである。ということはまたしても、子供たちが受動的にとりあつかわれることを意味する」
「子供たちは活動する瞬間、自らを個性化する。かれらは一群でなくなり、各自それぞれにはっきりした個性的な人間になる。校外で、家庭で、家族のあいだで、遊び場で、隣近所で、われわれが平素おなじみの、あのひとりひとりの子どもたちになるのである」
「同じことから、伝統的な学校におけるカリキュラムおよび教育方法の画一ということが説明できる。もしすべてが<聴講>という基礎に立っているならば、諸君は容易に教材と方法を画一化することができる。・・・様々な能力や要求に適応する機会はほとんどない。ある一定の大きさの、ある一定量の、レディメードの結果と仕上げがある。これまで小学校から大学まで展開されてきているカリキュラムは、この要求に応じるものである」
「旧教育は、これを要約すれば、重力の中心が子供たち以外にあるという一言につきる。重力の中心が、教師・教科書、その他どこであろうとよいが、とにかく子ども自身の直接の本能と活動以外のところにある」
「両親が聡明で、子どものために最善なものを見分け、必要なものをあたえる能力をもっているような理想的な家庭がここにあると仮定しょう。そこでは、おそらく子どもたちは家庭のあいだの世間話やその家庭のしきたりをとおして学んでいるにちがいない」
「家族の間で交わされる会話の中には、子どもにとって興味もあり価値もあるふしぶしがあるだろう。子どもはいろいろと発言し、質問がおこなわれ、さまざまな話題が語りあわれ、かくて子どもは不断に学習する。子どもは彼の経験を語り、その考え違いは訂正される」
「学校もまた子どもが実際に生活をする場所であり、子どもがそれを楽しみとし、またそれ自体のための意義を見出すような生活体験を与えるような場所であることが最も望ましいというべきであろう」
デューイがこの本を書いたのは、1899年である。100年以上前に書かれた本でありながら、いまだに私たちは彼の本から多くのことを学ぶことができる。このことは、私たちの教育がいかに人間的な歩みから背を向け、個々人の個性を尊重するという現代的課題を先送りしてきたかということでもある。
私は学校は基本的に、学習に対するモチベーションを与える場であればよいと思っている。モチベーションが与えられれば、子どもは自分で学習するだろう。そして学習は学校の中だけではなく、家庭や社会のいたるところで自発的に行われ、人生の時期を選ばず生涯に渡って続けられるだろう。
学校の役割をただ一言で言うとすれば、子どもに「自ら学ぶことの幸せ、生きることの喜び自覚させる」ことだと言ってよい。そしてそれは決して、画一的で機械的な詰め込み教育からは得られない。そのためにはなによりも学校が、人格的なふれあいがあり、心と心が交流し対話とくつろぎと安らぎのある人間らしい生活の場でなければならない。そのことをデューイはもう100年も前に主張している。
<今日の一句> ルーズ穿く 少女は暑さ 知らぬげに 裕
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