橋本裕の日記
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2002年07月22日(月) 結婚まで

9.大学院の研究室
 地下鉄の本山駅で降りて、まっすぐ南に15分ほど歩くと、名古屋大学の敷地の中だった。5年前、私は大学院を受験するために金沢からやってきて、初めて大学の広大な敷地と、整然と並ぶ建物群を見て、興奮したものだった。

 あこがれの大学院だったが、そこで暮らしているうちに、いつか私はしだいに覇気を失い、進取の気分をなくしていた。そこは世間から隔絶した、何だか中世の封建時代を思わせるような古色蒼然とした世界のように思えた。

 理論物理学の研究といっても、先輩達の仕事を見ていると、誰かエライ学者の論文を読んで、それを理解した後、少し数式を変えて計算をすることくらいである。それで論文を書いて、でめでたく博士号を取得したとして、就職のあてがあるわけではなかった。

 私は4年間で自分の学究生活に見切りをつけ、1カ月ばかり前にその狭い世界を飛び出したわけだが、今こうして再び訪れてみると、大学の敷地や建物群自体が、何だかまた一回り小さく、貧乏くさく感じられた。大学を飛び出して、世間と交わるようになってまだ日が浅かったが、確実に私は生き生きとした世間の空気を呼吸し始めていた。

 物理学科の校舎の3階に市ノ瀬さんの研究室があった。かっては私の名前がオーバードクターの彼や助教授のN先生の名前と並んで扉に掲げられ、机や専用の本棚もその部屋の入り口近くに置かれていた。今は私のかわりに、別の院生の名前が掲げられてあった。

 ノックすると、市ノ瀬さんが顔を出した。
「よくきたね」
「お邪魔じゃないですか」
「論文も片づいたところだし、今日はとくに何もないんだ。幸い僕一人だから、どうぞ中へ」

 市ノ瀬さんの言葉に甘えて、私は研究室のソファに腰を下ろした。市ノ瀬さんは自分の肘掛け椅子に腰を下ろすと、
「高校はどう?楽しいかい。たしか、三河の山奥の高校だったね」
「一学年3クラスしかないんだ。小さな学校だよ。一年間非常勤講師の経験があるので、授業はまあ、なんとかね」
「高校では何を教えているの?」
「1年生の理科を12時間と、3年生に物理を2時間ほど」
「合計で14時間か。一日平均、2時間とちょっとだね。空き時間は何をしているの」
「実験の準備をしたり、いろいろ雑務もあるしね」
「研究は続けているのかい」
「いや、すっかりあきらめた」

 私は目の前の黒板を眺めた。そこには相変わらず物理学の数式が一面に書かれてあった。私は大学を出るとき、多量の論文をコピーしていた。しかし、それらの論文に再び目を通すことはもうなさそうだと思った。

<今日の一句> 朝顔に 素足の女 想ひたり  裕


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