橋本裕の日記
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2002年07月21日(日) 対話する精神

 アメリカから交換留学生を引率してみえたT先生との会話を、以前この日記で紹介したことがある。その補足をしよう。というのも、Tさんが「アメリカの小学校にはチャイムがないのですよ」と言ったのを思い出したからである。

 お昼休みや終業時のチャイムはあるらしい。授業は連続して行われ、休みは各クラスで随時とる。Tさんの話によると、小学校では決まった時間割があるわけではなく、担任の先生の裁量で自由な授業がおこなわれていて、その中身も、日本の教育とは随分違っているようだ。

 アメリカの初等教育では「対話力」が重視される。先生の話を一方的に聞くだけではなく、それを自分なりに受け止めて、自分の考えをまとめ、さらに発表する。そうした「対話力」や「自己表現力」を養成すべく、授業も「スピーチ」を主体にした対話形式でおこなわれる。

 日本的な知識注入方式の授業もないわけではないが、それは中等、高等教育においてであって、初等教育ではこうした一方通行の授業は一般的ではないようだ。教師よりも生徒を主体とした、参加型の自由な教育が行われているわけで、そのためにチャイムや時間割は邪魔になるわけだ。

 現在NHK教育テレビで毎週木曜日の朝に放送されているアメリカの大学の語学教育の授業風景でも、授業はすべて対話形式で行われている。ときには教師は生徒を連れて自由市場へ出かけ、そこに売られいる商品ついてじかに商人との会話を通して調査させ、その様子を写真に撮り、その写真を使って後日教室で各自にレポートさせたりしている。

 生徒同士に質問させ、教師が質問したりしながら、対話の中で知識を深め、日常的な思考の道具としての英語を鍛えようとしている。文法書やテキストなど活字中心の日本式語学教育とは随分違っている。そうした活字中心の学習は家庭で独習することができる。だから学校では生徒間や生徒と教師との生きた対話による教育的啓発を大切にしているようだ。

 日本の学校の場合、教師が声を張り上げ、一方的に講義をすることが多い。そこには「教え込む」という姿勢が濃厚である。話をしている教師はたいへん心地よいだろうが、聞かされている生徒は面白くないだろう。少し頭のよい生徒なら、こうした教師の長広舌をただ唯々諾々として聞くことが苦痛になるに違いない。学問の場にはもっと生きた精神と精神のぶつかり合いや、ときには生徒と教師の知的な真剣勝負があっていいのではないかと思う。

 プラトンは「考えるということは、心の中で対話することだ」と書いている。だから、「対話力」は「思考力」の基本だと考えてもよい。初等教育において「対話力」を重視するのは、学問の基本がこの「対話力」だという認識があるからだ。「対話力」は「問う力」でもある。だからこれによって、知識の習得だけでななく、問題を発見し、得られた知識を批判的に吟味検証する思考力が養われる。

 対話の技術を修得することは、つまり「如何に考えるか」という思考の技術を身につけることである。こうした考え方に立って、アメリカのみならずヨーロッパでも、生きた学力としての「対話力」を、まず最初に身につけるべく実践的な初等教育が行われている。この「対話力」が修得されれば、これを使って、知識の習得や理解、発見が自発的に行われる。だから、知識の習得よりも、まずは「対話力」の修得が優先される。

 残念ながら、日本の場合は、「対話重視」の考え方が希薄である。むしろこれと逆行するような一方的注入教育が行われている。日本人の多くは対話能力を欠いたまま、中学、高校、大学を卒業する。そして、学問の楽しさや有用性を体験することなく、他人と対話し、自ら考えることの喜びを知らずに一生を終わる。

 こうした日本人の対話能力の乏しさは、NHKや民放の討論番組をみてみるとよくわかる。そこには「対話する精神」の片鱗さえうかがえない。国民の選良として国会議員こそはこの能力が求められるのだが、彼らもこの能力を欠いている。対話によって鍛えられた経験を持たないから、自説も検証を欠いた憶説の域を出ることがない。事実に基づいた公正で客観性のある議論ができず、根拠のない自己主張をお互いにぶつけ合うだけである。私たちはこのような「対話のない社会」に生きている。

 実は今から100年以上も前に、福沢諭吉は「スピーチ」の重要性を自覚していた。諭吉は25歳の時咸臨丸の一行に加わってアメリカを視察している。そこで学校の弁論大会に招待された。異国の青年達が公衆の前に立ち、臆することなく自説を述べ、公衆の共感を得るために知能を振り絞っている姿を見て、言論の持つ威力に打たれたようだ。

「演説とは英語にてスピイチと言ひ、大勢の人を会して説をのべ、席上にて我思ふ所を人に伝ふるの法なり。我国にては古よりその法あるを聞かず。西洋諸国にては演説の法最も盛んにして、この法の大切なるはもとより論をまたず。たとえば今世間にて議院などの説あれども、たとひ院を開くも第一に説を述ぶるの法あらざれば、議院もその用をなさざるべし」(学問のすすめ)

 彼は慶應義塾のカリキュラムに弁論術を加え、やがて三田のキャンパスに演説館を建設した。しかし、そうした有能な先覚者を持ちながら、日本にはまだほんとうの言論が根付いていない。その主な理由は「対話する精神」の欠如である。自由な言説と対話こそが教育と学問の基本であり、民主主義社会の基盤であるということを、私たちはもういちど肝に銘じるべきだろう。

<今日の一句> 初蝉に 耳を澄ませば 風立ちぬ   裕


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