橋本裕の日記
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2002年05月11日(土) ガリレオの娘

 ガリレオには二人の娘と、一人の息子がいた。二人の娘は修道院に入れたが、ガリレオは彼女たちを愛していた。なかでも、長女のヴィルジーニア・ガリレイ(洗礼名マリア・チェレステ)は父親ゆずりの聡明さと感受性を受け継ぎ、ガリレオの最愛の女性だったと言ってよい。

 マリアは1600年に生まれている。ちなみにこの年、ジョルダーノ・ブルーノがローマで火刑に処されている。1633年の1月、ガリレオが同じようにローマの異端審問所に連行される。ガリレオはそのまま拘留され、帰郷を許されたのはその年の12月だった。そして翌年の3月、マリアは父親の帰郷を見届けたあと、いのちの炎が燃え尽きたように34歳の若さで死んでいる。

 生前、マリアは数多くの手紙を父親に送った。124通もの手紙が残されている。もちろん、ガリレオからもこれに匹敵するだけの手紙が送られたのだろう。しかし、残念ながらガリレオの手紙は残されていない。マリアが修道院で死んだとき、処分されたらしい。解放されたとはいえ、ガリレオは異端審問所の監督下で幽閉されていた。

 現存するマリアの最初の手紙は、1623年5月10日の日付である。ガリレオがこの手紙を受け取ったのは、妹ヴィルジーニアの葬儀の翌日だった。なお、ガリレオは死んだ妹をとても愛していた。だから、自分の長女の名前もおなじ、ヴィルジーニアと名付けていた。

「私たちはみな地上では異邦人や旅人のように生き、やがては、叔母上の祝福された魂がすでに赴かれた至福に満ちた天上の真の祖国に向かう運命にあります。ですから、父上、神の愛にかけて、どうかご自分を慰め、御身を神の御手に委ねて下さい」

 ちなみにマリア・チェレステという洗礼名は、「天界のマリア」という意味らしい。星の研究に余念のなかった父親を敬愛してつけた名前だという。皮肉なことに、この星に対する研究が、やがてガリレオを苦境に陥れる。他ならぬ法王に捧げられた彼の著作「天文対話」が、天動説を誹謗していいるとして、異端者の嫌疑を受けた。

 晩年のマリアの手紙は、こうした苦境にある父の安否を気遣い、父親を勇気づけようとする慈愛に満ちている。マリアの現存する124番目の最後の手紙は1633年12月10日の日付を持っている。

「父上の送還のニュースが届くほんの少し前に、私は大使夫人閣下に宛てて、もう一度この件について取りなしをしてくださるようにお願いする手紙を書こうとペンを取りあげたところでした。こうして時間だけが経過するのを見て、今年の末になっても解決しないのではないかと不安になったからです」

「それだけに、私の急な喜びは予期せぬものであると同時に大きなものでした。喜びに浸ったのは私たち姉妹だけではなく、修道女たち全員が、好意からでた本当の幸福感を表しています。それは彼女たちが私たちの苦しみに同情してくれていたために他なりません。私たちは父上のお帰りを切に待ちわびています。そして天候が父上の旅のために晴れ上がるのを見ては心を浮き立たせています」

 しかしこのころ、マリアの体調はすでに悪化していた。このあと父親の帰郷を見届けたマリアは急速に素弱し、最後は赤痢にかかって死んだ。1634年4月2日。享年34歳だった。あとに残された70歳のガリレオは、マリアをよく知っている友人たちに、こんな言葉を残している。

「私は限りない悲哀と憂愁を感じています。そのうえ極度の食欲不振に加え、自己嫌悪に陥っています。そして絶えず最愛の娘が私に呼びかける声が聞こえるのです」(ジェリ・ボッキネリ宛て)

「私は大変ひっそりと暮らし、しばしば隣の修道院を訪れていました。ここで修道女として暮らしていた二人の娘に私は愛情を注いでおりましたが、特に上の娘は極めて繊細な心、比類ない善良さを持ち、このうえない愛情をもって私を慕っていました。
 彼女は私の不在の間、かなり健康不良に悩まされていましたが、自分自身についてはあまり注意を払っていませんでした。結局赤痢に倒れることとなり、6日間の闘病の末、悲嘆にくれる私を残して亡くなりました。・・・
 私が現在の幽閉状態から解放されるのは、私がもう一つの、万人に共通で極めて狭く、そして永遠に続く、ある状態に入るときだけであるということです」(エリア・ディオダーティ宛て)

<今日の一句> 五月雨も 何やら楽し ツバメくる  裕


橋本裕 |MAILHomePage

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