橋本裕の日記
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2002年05月12日(日) ガリレオと地動説

 太陽が宇宙の中心だという説はピタゴラス、プラトン、アルキメデスがすでに唱えている。しかし、これを「地動説」として、首尾一貫した論理的体系として示したのは、ポーランドの天文学者コペルニクス(1473〜1543)が最初だった。

 しかし、コペルニクスはこの説を学者である読者を対象にラテン語と数学的計算で示しただけで、一般大衆に知らせることは意図しなかった。「新奇で非常識な見解に浴びせられそうな嘲笑をおそれるあまり、私は着手した仕事をあやうく放棄するところだった」と述べているとおり、彼は自説が大衆に受け入れられるとは考えていなかった。「天球の回転について」が出版されたのも、彼の死後のことだった。

 若くしてアリストテレスの説に疑問を持ったガリレオが、コペルニクスの「天動説」に惹かれたのは自然ななりゆきだろう。ガリレオは1597年にケプラーに宛てた手紙の中ですでに、コペルニクスを我らが師と呼び、彼が「暗愚な圧倒的多数の大衆から笑い者にされ、排斥されている」ことを惜しんでいる。

 しかし、コペルニクスの説を排斥したのは、なにも暗愚な一般大衆ばかりではなかった。当代一流の学者や聖職者達も同じだった。たとえばガリレオと十数年の交際歴をもつ友人で、かって天文学を学び、ガリレオに勧められて望遠鏡で木星を検察したこともある枢機卿ロベルト・ベラルミーノでさえガリレオを批判した。

「太陽は昇り、また沈みてみずから立ち昇りし住処へ帰るとは、聖書に書かれた賢者ソロモンの言葉である。・・・太陽と地球に関しては、賢人はその判断を修正する必要はない。地球が静止していること、太陽、月、もろもろの星が動いているように見えるのは目の錯覚でないことは経験より明らかだからだ」

 ベラルミーノは法王の信任が厚く、ブルーノが焚刑になった裁判で審問官を勤め、「異端者の鉄槌」と呼ばれていたイエズス会きっての知識人である。ガリレオもこのときは彼の忠告に従わざるを得なかった。ただ、内心、不満であったことは言うまでもない。彼には聖書の記述に関わりなく、「地動説」こそ真実であるという確信があったからだ。ガリレオは後に書かれた「偽金鑑識官」という本の中で、このように書いている。

「多数の人々の証言が小数の人々の証言より価値があるということはほとんどないと私は言おう。それは、複雑な事柄に関してよく推論する人は、拙劣な推論をする人に比べてはるかに少ないからだ。・・・・推論は競馬のようなもので、バレベリーア産の馬一頭は百頭のフリースランド産の馬より速く走れるのだ」

 真理はつねに少数者のもとに生まれる。真理はただ忍耐強い推論と観察によってのみ、その真理であることを保証されるのであり、真理の真理であることを、多数決で決めるわけにはいかない。そんなことをすれば、真理はたちまちその誕生とともに葬り去られるだろう。このことをガリレオは誰よりもよく理解していた。だからこそ、アインシュタインは彼を讃えて、「近代科学の父」と呼んだのである。

 ガリレオは弟子のベネデット・カステリ宛の手紙でこう書いている。「聖書は誤りを犯すことがないとはいえ、その説明者、解釈者がいつも聖書の文言の文字通りの意味を頼りとするならば、彼らはいろいろな点であやまりをおかしがちです。・・・聖書と自然とは両者ともに神の言葉の所産であります。前者は聖霊によって口述されたものであり、後者は神の命令の厳密な執行者であるのです」

 このように、敬虔なカソリックの信者であったガリレオは、地動説が聖書に矛盾しているとは少しも考えてはいなかった。むしろ太陽中心の宇宙論に立った方が、聖書もよく理解できると考えていた。そして、自然を神の最高の作品として賛美し、その自然を知ろうとする人間の知性を、神が人間に与えた最高のプレゼントだとして信頼した。

 ガリレオにとって自然を知ることは、神を知ることに他ならかった。この点は、ニュートンも、アインシュタインも同じであろう。彼らの伝記を読む限り、科学と宗教を矛盾対立するものとして捉えるのは、いささか軽率といわなければならない。

<今日の一句> 衣がえ あかねの空に 星ひとつ   裕 


橋本裕 |MAILHomePage

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