橋本裕の日記
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ガリレオの父ピンチェンツォはフィレンツェの貴族で、才気溢れる男だったが、金儲けには不器用で、終生貧しかったという。彼はヴィネチアで音楽を学び、音楽理論の指導者の一人になった。彼の音楽理論は、形式的な対位法のルールから、音楽を自由に解き放とうとするものだったらしい。
中世的なハーモニーの理論を破壊するために、弦楽器を用いて実験をくりかえし、協和音が生まれる原理をあきらかにしようとした。当時の音楽理論は数学の一部でもあった。同時に、実験物理学の一部でもあったようだ。ピンチェンツォはこの実験を息子ガリレオとともに行っている。こうした父親の先進的な実験重視の姿勢がガリレオに与えた影響は大きかったに違いない。
「なんらかの主張を裏付けるため、それを支持する論拠をなんら示すことなしに、権威の重みだけに頼ろうとするのは、笑止千万な振る舞いである。私は逆に、真理を追究する者にふさわしく、いかなるへつらいも用いず、自由に質問し、自由に答えることが許されることを望む者だ」
これはガリレオの言葉ではない。かれの父の著作「古代音楽と近代音楽の対話」からの引用である。この本の題名は、ガリレオの名著「天文対話」の題名を想わせるが、その精神においても、まったく瓜二つである。この父ありて、息子ありということだろう。
ピンチェンツォは1591年に70歳で世を去った。あとに6人の弟妹、不平ばかり口にする年老いた母親が残された。27歳のガリレオに、これだけの家族を養う重責がのしかかってきた。しかし、ピサ大学の数学教授の給料は年間60スイードで、これは本屋の店員なみだった。同じ学者でも哲学教授はこの8倍ももらっていたという。
1592年にパドヴァ大学に移って、給料はかなり増えたが、それでも支出を賄うには少なすぎた。あらたにマリナが加わり、彼女との間に3人の子供が産まれたからだ。さらに、彼自身の遊び癖がある。研究するにも資金が必要だった。ガリレオはかくして借金に走った。やがて彼はたくさんの借金取りに追われるようになる。
借金の大きさは、母親のガリレオあての手紙からもよみとれる。債権者の中にはガリレオを破産者向けの牢獄にぶちこむと警告する者まであらわれた。ガリレオはこの苦境を脱するために、研究の傍ら、発明に走らざるを得なかった。彼の手がけた発明の中で、とくに「関数尺コンパス」はヨーロッパで広く用いられるようになり、彼にかなりの経済的利益をもたらした。たしかに必要こそが発明の母だった。
<今日の一句> 借金は あれどさわやか 五月晴れ 裕
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