橋本裕の日記
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2002年02月10日(日) 人生を構想する力

 三木清(1897〜 1945)といえば、共産党員高倉テルをかくまったため検挙され、終戦直後に獄死した悲劇の哲学者だが、彼が晩年心血を注いだのは、ロゴスとパトスの統合によって、時代を超える創造的な知を構築することだった。そしてそのために大切なのは「構想力」だという。そのあたりのことを、彼の晩年の著作の『哲学ノート』でたしかめてみよう。

<解決を求められているのは到る処同じ問題である。私は数年来この問題をロゴスとパトスの統一の問題として規定してきた。ヒューマニズムはその本来の意図において全人的立場に立つものとすれば、かようなロゴスとパトスの統一の問題はまさにヒューマニズムの根本的な問題である>

<ヒューマニズムは単なる文化主義ではない。それはむしろ文化が身につくこと、身体化されること、或いは人間そのものが文化的に形成されることを要求している。それ故にここにもロゴスとパトスの統一の問題がある>

<かようにして我々は先ず知性と直観とを抽象的に対立させることをやめなければならない。西洋におけるヒューマニズムの源泉となったギリシア哲学においては知性も或る直観的なものであった。直観的な知性を認めるのでなければプラトンの哲学は理解されないであろう。ルネサンスのヒューマニズムにおいても同様である>

<新時代の知性は単に批評的でなく創造的でなければならない。創造的知性が今日の知性である。批評的な知性が分析的であるのに対して、創造的な知性は綜合的である。抽象的になった批評的な知性は、創造的になるためにパトスと結合しなければならない>

<固より知性がパトスに溺れてしまっては創造はないであろう。創造が行われるためには自然の中からイデーが生れてくること、パトスがロゴスになることが要求される。創造は知性のことでなくて感情のことであるといわれている。その通りであるとしても、創造にはロゴスがパトスになることか必要であるように、パトスがロゴスになることが必要である>

<しかし如何にしてパトスは口ゴスになり、口ゴスはパトスになることができるであろうか。パトスとロゴスの統一は如何にして可能であるか。ロゴスに対してパトスの意味を明かにすることに努めてきた私は、この問題について絶えず考えなければならなかった。そして私は遂に構想力というものにつきあたったのである>

<カントは感性と悟性の綜合の問題に面して構想力を持ち出した。構想力は、感性と悟性が抽象的に区別されたものとして先ずあって、これらを後から統一するのではない。構想力はそのような仕方で感性と悟性を媒介するのではない。媒介するものは媒介されるものよりも本原的である。構想力のこの本原性に基いて創造は可能である>

<知性人は眼前の現実に追随することなく、あらゆる個人と民族の経験を人類的な経験に綜合しつつしかも経験的現実を越えて新しい哲学を作り出さねばならぬ。この仕事の成就されるためには偉大な構想力が要求されている>

<すでに個人から民族へ移るにも、民族から人類へ移るにも、構想力の飛躍が必要であろう。今日の知性人は単に現実を解釈し批評するに止まることなく、行動人の如く思索する者として新しい世界を構想しなければならない。新時代の知性とは構想的な知性である>

 三木が死んで半世紀以上がたった。今彼の著作を読み返してみて、少しも古くなっていないのに驚く。今私たちに求められているのは、ロゴス的なパトスであり、パトス的なロゴスであろう。ロゴスなきパトスは盲目であり、パトスなきロゴスは無力な蜃気楼でしかない。この両者を統合する創造的な知だけが、私たちの未来を明るく照らし出す。

 三木清が問題にしたのは、日本と世界の行方であった。戦時中の困難な状況下にあって、彼は未来を開く新しい知のあり方を徹底的に考えたのである。しかしロゴスとパトスの統一は何も哲学者の観念的な課題ではない。それは私たち一人一人の人生の実践的な課題である。大切なのは自分の人生を自分自身で構想し、実現することだろう。

(参考サイト)
 「哲学ノート抄」(日本ペンクラブ 電子文藝館)http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/study/mikikiyoshi.html


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