橋本裕の日記
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仏教に「色即是空」という言葉がある。私の好きな言葉で、よくこれを引用する。この世に存在するものは一切は空(くう)である。確かなものなど何もない。それが証拠に、あらゆることがらは疑えだせばきりがない。科学的な理論でも、時がたてば修正され、あらたな理論が現れる。
近代合理主義哲学の祖といわれるデカルトは、徹底的に疑ってそのあげく、「疑っている自分」の存在だけは疑うことができないと気付いた。そして「我思う、ゆえに我あり」という有名な言葉を残した。しかしこれだって、そもそも「我」などというのもが本当にあるのかどうか、疑えば疑える。
実際に仏教では「我」などというのは幻想にすぎないと考えているし、私が高校時代に出会った西田幾多郎の「善の研究」にも、「自己があって経験があるのではない。経験があって自己があるのである」と、先験的な自己というものを明確に否定している。私はこの一行に出会って、自己という狭い牢獄からの解脱感を味わった。そして哲学が好きになった。
最近の構造主義の哲学も、自己などは幻想だとしている。人間の意識には自覚されない不可視の構造が存在して、そのなかで、はじめて人間の言語や行為が成立する。だから主体としての自己というものを認めていない。
たとえば言葉について考えてみよう。いうまでもなく、言葉はそれを発する人間と、それが指し示す「事物」のあいだに存在している。そして、多くの人は、まず「事物」があり、これを指し示すものとして「言葉」が生まれたと考えるだろう。
しかし、ソシュールは言葉によって名ずけられる前に「ある事物」は存在しないと考えた。それでは事物は言葉から生まれるのだろうか。ソシュールはそれも違うという。事物と言葉は同時に生まれたと考えるのである。
言語においては「ある事物」と「名前」は分離できない。そしてここで重要なことは、全体的な言語体系(ラング)のなかで個々の言葉というものがはじめて意味をもつということである。
たとえば犬という言葉がある。この記号一つに何か実体的な意味が宿っている訳ではない。猫とか人とか、他の多くの言葉との関係の中で、はじめて意味が生まれ、確定するのである。言葉にとって大切なのはこの「差異」だということになる。
このことをソシュールは、言語記号の各要素は実体的に構造化されているのではなく、各要素と全体との関係、各要素間の関係によって構造化されていると考えた。すなわち、意識を持った主体が言語を操っているのではなくラングの体系のなかではじめて人間の意識があらわれるのであり、我々の意識はいわばラングという隠れた構造によって規制されている。
もちろんラングと言えど普遍的な実体ではない。それは個々の人間と人間の集団のありかたを規定しながら、またその活動の影響を受け、歴史とともに変貌していく。人間の精神は言葉によって生み出された。しかし言葉を生み出したのも人間であり、人間という不思議な存在抜きで言葉は存在しない。
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