橋本裕の日記
DiaryINDEX|past|will
精神はどこに宿るかと言えば、それは人間の肉体であろう。人間以外にも、たとえば計算機の電子回路にも発生することがあるかもしれないが、そうしたSFの話は考えない。またここで精神というのは「理性的な意識」のことである。
たんなる意識なら、犬や猫も持っているかも知れない。しかし、理性的な意識となると、人間に特有な現象だといえるだろう。また一方で動物と人間を区別するものとして、言語の使用をあげることができる。そこで、ひとつの仮説として、精神は言語のなかに宿るということが考えられる。
ギリシャ語のロゴス(logos)には本来「理性」「真理」という意味があったが、ギリシャ人も理性や真理が「言葉」の中に宿ると考えたようだ。そして「言葉」もまた同じロゴスの名前で呼んだ。現代ではロゴスと言えば、一般には言葉や論理を意味するようになった。
ロゴスを「やまとことば」で表現すれば「ことわり」であろうか。それは事柄そのものに内在する秩序とか法則を意味する。同時に、それは「ことば」の法則や秩序とも不可分にむすびついている。「論理」と呼ぶほどの明確な言語意識はなかったものの、言語におけるロゴスという観念の芽生えは感じられる。
言葉によって規定された人間の精神が論理的だとすれば、その精神が作り出した文明や文化もまた論理的だということができる。こうした言語学的なアプローチから、現代の文化人類学や「構造主義」の哲学・思想が構築された。つまりあらゆる文化現象の深層に言語的な論理構造を考えるのである。
そこで当然、日本文化の深層を日本語の構造の中に探ってみようという研究が行われてもおかしくはない。またそうすることで、「天皇制」をはじめとする日本の政治構造を明らかにすることができるかも知れない。すでにそうした研究がなされていれば、日本文化を考えるときの参考にしたいものだ。
|