橋本裕の日記
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2002年02月06日(水) 論理的な文章の魅力

「日本語は論理的ではない」などということがいわれる。ここで使われる「論理的」というのは、「つじつまがあっていて、曖昧さがなく、正確である」というくらいの意味だろう。

 たしかに日本人は曖昧で情緒的な表現を好む。しかし、日本語そのものが論理的でないというのはどうだろうか。日本語で書かれた文章には論理的なものもあるし、そうでないものもあるというべきだろう。論理的であるかどうかは、その使い手の態度や能力によるところが大きいように思う。

 科学者や数学者の書く文章が論理的だとしたら、それは科学や数学が何よりも論理を重んじる学問だからだろう。これにたいして、文学者の書く文章はときには空想的であり、非論理的な表現が目立ったりする。哲学者や宗教家の書く文章にもたまに、「絶対矛盾の自己同一」とか、「火もまた涼し」だとか、わけのわからぬものがある。

 ところで論理的な文章はわかりやすいかというと、一概にイエスということができない。論理的な訓練を受けた人間にとってはわかりやすいが、そうでない人にとっては難解に見えるかも知れないからだ。論理的な文章は専門的になるにつれて、様々な抽象的な概念を用いる。概念の意味が分からなければ、文章の理解はおぼつかない。

 しかし、一般に論理的な文章は明晰である。難解であるといっても、非論理的な文章の持つ難解さとは違って、知識や情報をたくわえ、筋道を立てて考える努力をすればわかるようになる。抽象的な概念も、使っているうちに親しいものになり、イメージが浮かぶようになる。イメージが浮かぶということは、それが抽象的な存在から、具体的で現実的な存在へと変貌し、思考の道具として成熟したことを意味している。

 日本語を学ぶということのなかに、日本語におけるこうした論理的表現力を高めるということを含ませたいものだ。そのために必要なのは、論理的構成のしっかりした文章を読ませることだろう。いきなり高度なものではなく、身近な問題をあつかったものがよい。ごくありふれた現象でも、これを論理的に考えることで、また別の真実が見えてきて、眼からウロコと言った思いがけない発見をすることがある。

(たとえば、「日本語が見えると英語が見える」などの著書を読むと、身近な日本語についての、こうした楽しい発見が味わえる)


橋本裕 |MAILHomePage

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