橋本裕の日記
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2002年01月10日(木) 家族愛の脱構築

 最近よく「脱構築」という言葉をつかう。もともとはデリダの発明した言葉のようだが、私はかなり自分勝手に使っている。たとえば「家族愛の脱構築」というふうな具合にである。

 家族は一番身内である。これを愛するのは自然な感情だろう。私はこれを否定するわけではない。しかし、こうした自然な家族愛はしばしば因習的で排他的な身内意識にしばられがちである。また、家族はかくあらねばならないと言った常識や押しつけが、個人の自立をはばみ、ときには個人を歪め、社会生活そのものに支障を来す場合もある。

 そこで、こうした従来の常識を一度根底から疑い、これを否定してみてはどうだろ。「脱」というのは、こうした従来のシステムやそうしたシステムが作り出す幻想から逃れて自由になることである。

 そうして、いったんはゼロにリセットして、ほんとうに必要であれば、こんどは自分の主体的な判断と意志で再構築するのである。私はこうした否定を媒介にした肯定のプロセスを「脱構築」と呼んでいる。

 だから、脱構築とはいいかえれば「色即是空、空即是色」である。「愛は空である」というのが前半、しかし、その「空」の中から、再び愛を建設することが大切である。血縁にもとづく情念としての因習的な愛から、もっと明るく開放的で自由で意志的な愛へと、愛の領域を広げ、豊かなものへと深めていくことが大切ではないか。

 おりしも、アフガンにおける米軍の空爆で、民間人の死者が37000人をこえたという集計が米ニューハンプシャー大学のマーク・ヘロルド教授によってなされた。空爆に伴う食糧危機を考慮すれば、間接的な空爆の犠牲者はこれをはるかに凌ぐ規模になるのだろう。

 アフガンの人々に身の上を、自分の家族同様に案じることはできることではない。しかし、彼らも又、私たちと等しい人間であり、同じように家族を持ち、この地上にともに生をうけた同胞である。そのことを忘れてはならない。

 こうしたより寛容な心で愛を育てることが出来ればと思う。そのために必要なことは、身近なところにある自然で因習的な愛を、単純に否定するだけではいけない。これを足場にして「脱構築」することが必要になる。

 自己愛を頭から単純に否定するのではなく、これを批判的に再構築すること、すなわち「脱構築」することが必要なのだろう。そのとき私たちの自己中心的な煩悩は昇華して、より普遍性のある愛へと姿をかえる。主体的に生きるということは、こうした「脱構築」を不断に行うということではないだろうか。


橋本裕 |MAILHomePage

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