橋本裕の日記
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1956年、第1回中央公論新人賞に、深沢七郎の「楢山節考」が選ばれた。審査委員だった武田泰淳、三島由紀夫、伊藤整をして「恐ろしい小説」と言わしめた力作だった。授賞式での三島由紀夫の「この作家はうすきみわるいな」という一言は特に有名である。
しかし、この激賞ともいえる選評を、作者の深沢は意外だという。彼は「おりん」のような年寄りの気持ちが好きで書いただけで、そんなに深いことは考えていなかった。だから、自分の小説が文壇の大御所から仰々しく言われることに戸惑いを感じたらしい。
「(ひょっとしたら、「楢山節考」には?)と思った。あの小説には、ボクが忘れてしまった人生観などという悲しい、面倒クサイものが、書こうともしなかったのに、形を変えて書いてしまったのではないかと思った。もしそうだったら、ボクは、また、人生観などという、暗い、深刻な、見つけたら叩きつけてやりたいような憎らしいものを、また、考えなければならないのだろうか」
こうした言葉から、作者の創作心理を類推すると、深沢七郎はおりん婆さんのような、あまり生に執着しない<自然な>生き方や死に方にあこがれがあった。そして、ただ単純にそうした世界を描きたかっただけのように思われる。
ところが、その舞台設定として、姨捨伝説を用いたところにさまざまな混乱がうまれてきた。さらに、彼自身の創作意識がこれに輪をかけた。あれこれ作り上げるうちに、さまざまな別の要素が入り込んできた。まさに、「書こうともしなかったのに、形を変えて書いてしまった」のである。
その結果、作品としては思わぬ奥行きが出て、面白くなったが、その分、なにやらわからない混沌が生まれてきた。そして、そこがこの作品の魅力でもあるのだろう。この作品については、さまざまな角度から、さまざまな分析ができて、それ自体興味が尽きないところがある。
さて、それから4年後、三島由紀夫の熱狂的な支持をうけて、深沢七郎は「風流夢譚」を再び中央公論に発表した。天皇の存在自体をちゃかすような、滑稽で、残酷で、風刺的な内容の小説である。これが右翼を刺激した。そして「嶋中事件」と呼ばれる右翼テロ事件を引き起こした。
中央公論社長宅のお手伝いの女性が日本愛国党員に数カ所をめった刺しにされ殺害された。日本の言論界はこれによって沈黙した。右翼の脅迫は、深沢の支持者、三島由紀夫にも及んだ。そして深刻な精神的打撃を受けた三島由紀夫は、これを契機に武道に走ったという。(『三島由紀夫の生涯』安藤武著)
一方、深沢七郎も右翼の迫害を逃れて、漂泊の旅に出た。そして、この漂泊の旅が、ますます深沢を彼らしくしたようだ。深沢七郎はやがてこんなことを書くようになる。
「ひとりだけの世界に生きていた者は生態がどんなに変わっても変化しないのである。私が気がついたことは、勿論悪人たちの集団に入っていることはできないのだが、私は善人たちの仲間入りもできないのである。どんな善意の集合へも入っていられないのである。私はひとりだけがいいのだ。ずーっといままで、私はそうだったのだ」(生態を変える記)
深沢は「人生は屁みたいなものだ」とも書く。だからあまり深刻にならなくてもよい。好きなように生きればよい。そして彼自身、そのように気ままな人生を送ったように見える。
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