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2004年12月04日(土) 石牟礼道子

『石牟礼道子全集・不知火』発刊記念シンポジウム 石牟礼道子の世界を早稲田の大隈小講堂で聴講してきた。

と、偉そうに書いたが、実はパネリストのひとりである町田康を見に行くのが目的だった。本当にお恥ずかしいことだが事前に著作を読むこともせず、「いしむれさんてだあれ?」という状態のまま当日を迎え、満員の席の前の報に陣取ったのも全て、町田先生を拝む目的でしたことだった。

それが、終わってみたら本当に凄い衝撃を受けて、早速『苦海浄土』を読もうという気になっている。このシンポジウムで語られた石牟礼作品の壮大さを知り、そして、それ(作品の壮大さ)に比してあまりにもこじんまり、「ちょこん」と壇上のソファに座り、消え入りそうな声で、しかしこの世のものとは思えない柔和な笑顔をたたえて話す作家を見る時、私は不思議なな感銘をうけずにはいられなかった。

話を聞きながら、丁寧にメモをとった。基調講演をした阿部謹也はじめパネリストたちの話す言葉は分かりやすく、理解しながら聞くことができた。だから、時間軸に沿ってこの4時間について語ることはたやすいはずであった。

それが、帰ってキーボードに向かったまま固まってしまう。出てこない。石牟礼道子の素晴らしさについて誰かに伝えたいと考えれば考えるほど、自分のことばのなさに愕然とする。

ああ、何も言えない、と思ってしまう。

ただ、最後にご本人が仏の笑顔で語ったことばが、普段私が考えていることとリンクしたのが嬉しくて、ここに書いておくことにする。

「ここまで色々な作品を書いてきて、今は自分を無にしたいというところに来ています。自分を無にして、ただ人々の声を書けたらいいなあ、なんて。うふふふふ」

権威も肩書きも地位もない人間が、いったい世の中をどんな風に感じて、生きてきたのか。新聞記事の「書きことば」からこぼれてしまった人々の歴史を、彼ら自身が発する「話しことば」で丹念に記録した作家、石牟礼道子。

日々暮らしている中で、記録からもれていくたくさんの感情やもどかしい気持ちを、我々は体で知っている。昨日の日記に書いた、角田光代の言う「微細なもの」とはまさにそのことではなかろうか。

やがて歴史として束ねられていく新聞記事の、たった数行の「書きことば」の向こうにいったいどれだけの省略された人生の一日、一瞬があるだろうか。石牟礼道子により、「救済された」歴史があると阿部謹也氏は書く。

石牟礼氏の顔から放たれる光はすごい。それは、人の苦しみを自分のものとして引き受け、もだえ苦しみながら、それでも虚無を排除して書き続けるの彼女の、圧倒的な強さそのものだ。町田康氏は、「石牟礼さんの声には根底に哀切がある、ギリギリな感じがする」と言った。

どうしたらあんな風になれるのだろうかと、壇上の小さな「おばあちゃん」を見ながら思った。


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