| 2004年03月18日(木) |
「自分のことで恐縮です」と敢えて書くひとの謙虚さ |
八十二さんのところなんかを見ていると、自分の旅行記が嫌になってしまう。おととい、昨日と見ていた『わたしはあきらめない』総集編で瀬戸内寂聴が話していた「圧倒的な才能の差」というのには本当に共感した。売れっ子作家になってから、「歴史を超えて息づいている文学に比して、自分の作品はなんと卑小で俗物であることか」と虚しくなり、出家したのだという。
私はもともと他人の旅行記ってあまり興味が無くて、どこ行った、何線に乗ったといくら書かれても、そこに実際に経験した人でなければ分からない手触りが欠如していることが多いからだ。私のもそうだな、と書きながら気付く。
いくら言葉を尽くしても、語れない何かが自分の中に残ってもどかしい。言葉にならないものを感じるのが旅だろう、そういう意見もあるかもしれない。しかし、「嘔吐物をはき出すように」書けている例えば中学校時代の日記などをみると、そこでは絞り出された瞬間瞬間の気持ちを、読む側もしっかりと受け止めることが出来る。うまさや洗練など微塵もないのに、である。それが今では、頭(心?)の中にあるものと出すものの間に距離のない文章を綴ることが、とても難しくなってしまった。八十二さんの日報を見て感じる劣等感はそこだ。
自分が見た風景と、そこにいた時の気持ちを忠実に再現できている(実際には出来ていなくても、読む側にそうとつたわってくる)ものは、だから本当にすばらしいと思う。エッセイ風の叙情詩をつづれ、ということではない。ただ出来事や風景の羅列をしているだけでも、カタルシスのある文章は存在する。例えば町田康の日記のように。
あーあ、もう適当に埋めちゃえばいいか、写真とかで。と、半ば書くことを投げかかっていた時、最後に寂聴先生のひとことが耳に飛び込んできた。
「私はね、80歳になってもこうやって物を書いてるだなんて思ってもみなかったんですよ、だからね、自分の中にどういう才能があるかなんて分からないから、最後まであきらめちゃだめ」。
昨日の電話で友人が、「プラモデル集めてるだけじゃ、結局繰り返しだから飽きちゃうんだよね。洋服もそう。消費しているだけだと、もうつまらなくなった。だけど、プラモデルにしたってそうだけど、ものづくりとかデザインとか、自分でやるときりがない。飽きないんだよね、だからいつまでもやれる」と話していて、聞きながら私はひそかに絶句してしまって、ものづくりって自分には出来ないかも、ああどうしようと考えていた。
書き続けられる、ということ自体を才能としてもいいんだ、(瀬戸内寂聴は書くものの内容にだって才能が溢れているのだろうけれど)そう思ったら少し楽になった。これからずっと、ただ言葉に変換できずもどかしいという心情を吐露するだけでも、私は「飽きずに」やっていけるのかもしれない。
勝手に納得して、だから私は書くのである(傲慢だろうか)。清水寺から見た夜景、と言葉にするほど陳腐になるあの闇の中のきらめきを、ああでもないこうでもないと苦悶しながら、それでも私は写し取りたい。写し取りたいと思う気持ちは、ありがたいことにずっと尽きなさそうだ。だから私の旅行記は、残念ながら陳腐なりにもアップされていく。帰ってきてから二日間家にひきこもり、コーヒーを飲みながらパソコンに向かって、そんなことばかりをぼんやりと、考えていたのだった。
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