有意義な一日。 - いきなり言い訳をするけれど、こんなこと書くと増々言い訳じみてくるけれど 私がここに書くメロドラマのような文章は半分(以上)「芸」だ。昨日の日記、(あなたが好きよ、でも届かないのね、的な内容の文章)を読んだ友達に、「あれは誰のことを書いてるの?」なんて尋ねられたので、ああそうか、やっぱり人の目に映る私はデッドリ−シリアスで頑張り屋さんな女の子なんだなあということを確認し、反省した。まだきっと、自分を見つめるメタな視線が足りないのだろう。
今日ジュンク堂で、保坂和志と坪内祐三のトークッセッションをみてきた。ちょうど昨日から--というかここ最近ずっと--考えていたあらやこれやととリンクして、大変に興味深かった。「感傷的な小説が何故だめか」という話である。センチメンタルでウェットな小説を書く人は結局自分の過去の傷、失敗を満足げに隠蔽しているに過ぎないのだという批判。「自分の手を触れた人は感傷にならないはずだ」という保坂さんの言葉が印象的だった。氏は八方手を尽くした末に愛猫が死んだ時、怒りの感情しか込み上げて来なかったと言う。
合い言葉のように村上春樹を好きだと宣言する度、「田中(松尾)みたいな読み方をするのは嫌だな」と友達に良くいわれたものだ。喪失感や内面の感傷にばかりスポットを当て、一緒に涙を流したり「やれやれ」と言ってみたりする態度にである。
松尾スズキも椎名林檎も村上春樹も、私は本当の魅力を解していなかった、いない、という気がすごくしている。
坪内先生がおっしゃっていた、「感傷のセンサーはあるけれどそれを表に出さない表現」というのが、本物(つまり純文学であったり、ゴミでない音楽であったり)だということが、最近になってようやく実感できかけてきた。ただクールなだけでなく、かといって美しく閉じ切った世界にならないもの。
ここで「私は」、と続けるのもお門違いだが、私はそういった素晴らしいバランスの文章を書く能力がない。だから昼のメロドラマだか月9だかのようにお涙を流しながらお涙を頂戴するような気取った俗物しか吐き出せないのだ。それを芸だといって誤魔化すようになったのは、自分の「感傷」にすっかり酔えなくなったからなの、というのは内緒の話。「やれやれ」ですね。
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