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2010年12月16日(木) 一通の手紙



 今の時期になると、必ず新聞には赤穂浪士討ち入りが、記事やコラムに登場する。産經新聞でも二日続けて話題にしていた。

以下は仕事で京都滞在中の父が娘にあてた手紙である。
 
一筆申入まいらせ候、まつく相替事これなく何も御そく才のよし承りよろこひまいらせ候 いよいよきけんよく候や きかまほしく存まいらせ候さくらたにて御は"様 喜平次との御きけんよき通り数く御うれしくそんしまいらせ候……。以下略  

 これを作家の清水義範が 全訳したものがある。

一筆申しあげます。まずはおかわりなく、お元気であるときいており、喜んでおります。その後もご機嫌よくしていますか。お便りをほしいと思います。桜田(の上杉屋敷)の御母様も、喜平次殿(父方から養子に入った綱憲のこと)もご機嫌よき様子で、何もかも嬉しく思っております。私の方も無事に御用を務めています。今度の御用は、人の出入りが多くてなかなか暇がなく、忙しさの様子を御推察下さい。この二十七、八日頃には、おいとまをいただけるとの御沙汰がありましたので、それまでは首尾よきように務め、やがて帰省した折にいろいろお話をいたしましょう。さて、この鼻紙袋のきれと香包みは、御所向きの品とききましたので、お送りします。大切に愛用して下さい。お阿(三女の阿久里姫のこと)にも、小さな人形を三つお送りします。

これは何だ?
慈愛に満ちたまるで母親が書いたような文章である。
書いたのはあの討ち入りでの悪役吉良上野介義央(こうづけのすけ、よしひさ −残された花押から−)
書いた時期は、延宝元年(一六七三)、霊元天皇に姫宮の誕生をお祝いするために幕府と皇室の橋渡し役の吉良が幕府の使者として上洛し滞在中にしたためたものと言われている。



上の文(ふみ)から感じるのは素朴で実直な性格性向で、 浄瑠璃の仮名手本忠臣蔵に出て来る、高師直(こうの もろのう 吉良に相当する)や、多くの討ち入り小説映画の吉良上野介の小賢しく狡猾なイメージはない。

また逆に、浪士達が忠を尽くした浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)は、貞享四年(一六八四)二十一歳の時、江戸で「放火容疑の母娘を幕府に無断で殺し、赤穂への帰国が差し止められた」という風聞文章史料が土佐藩の山内家から見つかっている。

この二つの挿話から、まるで正反対の不思議な感慨にとらわれた。主君に最後まで仕えた赤穂浪士達には何の罪もないが、複雑な気持ちになる。


 浅野と吉良の確執はいろいろあるが、吉良の家は高家肝煎(こうけ・きもいり。四つの階級があり、表高家、高家見習、高家、高家肝煎)で、その仕事は朝廷幕府の橋渡し役の他、今風に言うと勅使(東山天皇の)を迎え入れる際などに、それを受け持つ饗応役(大名)に作法テーブルマナー、礼法を通じて教える総指揮監督業であったと考えられる。

 フランスでもルイ14世(ブルボン朝第3代のフランス国王(在位:1643−1715)に反旗を翻したが、後に王の信頼を再び取り戻すために大宴席を画策したコンディ公に仕え、それを仕切ったよく似た職業を持ったヴァテルがいた。予算獲得に始まり宴会のテーブル配置から料理の一品までの何から何までの総指揮をすることだった。このヴァテルは後に、メニューの魚が届かなかった事に責任を取り、自害している。
 だが、勅使を招くというのはコンディ個人の画策とは次元が違う。
勅使を招く接待準備を浅野と伊達の両大名が受け持った。その折の各大名の予算提出や、接待場所の屋敷設えを巡って接待日ぎりぎりになって畳縁に皇室由来の繧繝縁を採用していなかった(浅野が予算削減理由で独断)りで、京都から帰って来た吉良がそれを知り厳重注意する。朝廷勅使接待に対して慣例通り型を変えずにやりなさいと嗜めたのだ。それを逆恨みされたのかどうか。

 現在の京都の御所前にある畳屋を訪ねたとき、御所畳を初めて見た。普通の暑さの二三倍はある。縁も繧繝縁(うんげんぶち)という縁意匠(デザイン)で特殊なもの↓である。






 吉良が賄賂を取っていたと言うが、コンディ公に仕えたヴァテルと同様、その作法、仕切りなどを教える事は貴重な自家(禄高四千、娘は薩摩藩大名にお輿入れの際に余りの禄高違いをどうにかしようと上杉家から嫁に出してもらっている)の収入源となっていたと考えられる。
一方浅野の方は五万石の堂々たる大名であった。

 吉良が討たれて後、事件を知った東山天皇は嬉々としていた(関白近衛基熙の日記)らしいが、幕府側の思惑と朝廷の思惑と、幕府と朝廷の間に立つものに取っては、どちらからも恨まれる存在だと考えるのは自然だろう。現代の中間管理職の面々どころではない。

この吉良の几帳面さは、後に数少ない古文書の中に、「膳の上に料理を並べるその並べ方までも図解したもの」が残されている事でも分かる。
四十九年間殿中に出仕、二代の将軍(四代家綱五代綱吉)に使えている間、実に年賀の使いが15度、幕府の使いが9度、計24度宮中に参内している。当時新幹線はない。東海道五十三次の頃の事である。

 さらに、自分より身分の低い朝廷中級役人よりの贈答品(お香)に対しても即座に丁寧な礼状をしたためている。律儀で気配りがあった。

 『山の境界線をめぐる紛争の解決を、寺に依頼されたこともあった。これには「私が内通しても寺社奉行は思うようになりません」と断っており、芝居や映画のように権力に任せて振る舞った上野介とは違う姿が見られる。どの書簡も「なおなお書き」と呼ばれる追伸が添えられ、相手への気遣いが感じられる。』
(上野介の書簡9通を現代語訳した『吉良に残る吉良さんの消息(手紙)(問)吉良町教委生涯学習課発行 )

浪士達の討ち入りそのものについては当時の世間はどう見ていたか。
幕府の大学頭林鳳岡(はやしほうこう)は浪士が主君の仇を討ったことは「忠義」であり、武士道の鑑であるとして浪士擁護論を展開。
これに対し儒学者荻生徂徠(おぎゅうそらい)は浪士の行為は公儀の判決をするものであり、決して「忠義」などではない、これを認めれば天下の法は権威を失う(法を規範とした新武士道)という。「義」をとるか「法」をとるか侃諤の議論がされた。
この時期、旧武士道から新武士道の変わり目でもあった。

 一番不思議なのは、事件の後、襲われた側の吉良の孫(養子。討ち入りの際応戦し重傷を負っている)吉良義周に、領地没収の上、信州諏訪高島城に幽閉という処分が下った事である。何故か重罪の扱い(大目付より「当夜の働き不届至極」?)で諏訪に送られ、爪を切る事もいちいち幕府に問わねばならず、自刃防止のため剃刀の使用もならず、一室に幽閉されて下着すら変えられず垢まみれになりシラミにたかられ、小便が出なくなり体がむくみ死んだ。享年21歳。
 この間、実父の上杉綱憲、上野介の妻で綱憲の実母の富子が死んだ。この時点で結果的に吉良家は断絶した。
この事は、当時の世間に迎合した幕府が喧嘩両成敗としたとしても何とも理解できない。

 昔ほどではないけれど、毎年師走が来ると赤穂浪士討ち入りが必ず話題になる。だが本当の所はどうであったのか。芝居や映画が一人歩きしている。師走を迎える度、あの、慈愛に満ちた母のような手紙を我が娘に送った吉良上野介義央を、その家(家系から大石内蔵助と吉良家は本人達は知ってか知らずでか遠縁にあたる事が分かっている)を思うと、ちょっと切なくなるのである。





参考文献…鈴木悦道著 実像吉良上野介。新版吉良上野介 中日新聞社
清水義範…上野介の忠臣蔵 文芸春秋
岳真也…吉良の言い分 真説・元禄忠臣蔵 KSS出版 小学館文庫



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