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2006年06月06日(火) スギたる和ダ猶およばざるが如し



 今は昔、京の都の経営する美術学校に入るべく算数国語理科社会を猛勉強、美術科入学、彼は喜び勇んだ。入ってからはたと気がついた。何をやっていいのかわからない。あらかた、熱意は受験で使い果たしてしまっている。白いキャンバスを前に考え込んでついに四年間、黄ばんだキャンバスを残し、一枚の作品も残さず、英語の単位をも落として仮卒業してしまった。豪傑である。年下の友人の本当の話である。
 
 その豪傑、 もし在学時に、留学試験があったらどうしたか。件の人と同じく、多分現状から逃れるために受験しただろう。件も豪傑も、もとより、受験勉強はお手の物。あら、受かっちゃった、てなもんで、期待に胸膨らませて異国に行っても、無いもの(才能)は無いのである。
どうするか。とりあえず、気に入った友達の絵のまねっこを始めてついに数十点、試しに、ちょっと片々を変えて見た。
他人の褌のしめ方を変えたら何だかよくなった(ように思えた)。そうこうする内、留学期間も終了、帰国。成果を問われる。仕方ないから、色を変えた他人様の褌で、展覧会に出したら、あらら、賞をもらってしまった。もう後に引けない。が、昔も今も、才能は端から無い。のだから、いまさら作風を変えたくても出来ない。ままよ、同じ作風の予備がまだ数十点、小出しにして行けば、しばらく大丈夫だと思ったのかどうか。

     
和田義彦「宴の後」       アルベルト・スギ「妻と夫」


…ついに破綻の時が来た。それまでなんの和田かまりもなかったのか。
 昔は、大工他・職人、技能職は、試験など無かった。入りたければ這入って、去る者は追わなかった。考えてみてくれ、絵描きが大学院出て、絵の博士号とって何すんの?絵の博士てなんだ?

 数十年前、ある科学的油彩画の技術とやらの本を信じて勉強した。その著者は芸大のセンセで画家であった、ある時、その著者が出品している展覧会を見に行った、目の前の著者の絵が、あまりにも稚拙に見えたその言行?不一致に驚いて、すぐに、うどん屋の釜(湯だけ)図書と認定、破いて捨ててしまった。いくら、絵を科学しようと何しようと、絵が描けなくてはどうしようもない。
これじゃ、グザヴィエ ド ラングレと同じじゃないか。絵画は無言の説得である。
「うーむ」と圧倒させるものが無ければ、プロとは言えない。これに学歴は関係ない。

 はっきりしている事和田、彼の人には絵を描く才能が無かったと言う事である。確かに難しい試験に通ると言う才、デッサンをちょこっと描く才はあったかもしれない。
芸大の入学試験に通る位勉強の出来た只の人だったのだ。もとより絵描きではない。


グザヴィエ ド ラングレ(1906〜75仏ブルターニュで生まれる)…油彩画を技術面から 分析、「La technique de la peinture a 'lhuile (油彩画の技術)」を著す。 ファンアイクから始まり、フランドル画派の技法などを紹介、しかし、その成果を示せるはずのラングレ自身の作品は、末流。俄に、その内容の信憑性を疑ってしまった。むしろ、ブルトン語で書かれた小説の方が高い評価を得ている、中世文学に深い造詣。
画家としてのラングレの名は残っていない。




→2002年の今日のたん譚










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